続・放蕩息子

ルカによる福音書 第15章25〜32節
 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると音楽や踊りのざわめきがきこえてきた。そこで、僕(しもべ)の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず。父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上(しんしょう)を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』


YACCOのつぶやき
兄と弟と教会の兄弟姉妹

短編小説 現代版・放蕩息子

 こういう話しって、結構巷(ちまた)にも転がっていますよね。程度の違いこそあれ、似たような話があなたの親戚の間で語られることも珍しくはない気がします。あるいは、自分自身を”長男”に投影する方、”次男”に投影する方がおありかもしれませんね。

 私自身は長男ではありますが、”次男”に自身の内面を投影する者です。しかし、聖書の放蕩息子後半を読んで”長男”の立場にある者の内面を理解する大切さを教えられた気がしました。

 この譬えは実際の家族ばかりでなく、教会での兄弟姉妹関係に置き換えて考えることができますし、むしろイエス様がこの譬えを語られた意図は後者の方にあったということができます。
 もっとも、この譬えはユダヤ教のファリサイ派や律法学者達への皮肉を含んだ示唆でもありました。しかし、教会に集うわたし達でさえ、時に戒律主義に陥ることがあることを思う時には、この譬えが同時に私達に向けても語られていると読むことが自然であろうと思うのです。

 私達はかつて放蕩の限りを尽くし迷子の子羊となっていたところを、イエス様に発見していただき教会の群れに連れてこられた”次男”でした。そして私達は教会で過ごすうち自分が”次男”であったことを忘れ、”長男”の立場で神様に不平不満を述べやすい者です。

 「私よりもあの人の方が神様に愛されているに違いない」とか、「あの人よりも私の方が神様に愛されているに違いない」などの思い込みを持っているのだとしたら、その思いは捨てなければなりません。神様は一人ひとりを均しく愛してくださり、差別なさる方ではありませんし、神様の愛(アガペー)は一人ひとりを比較する類の愛ではないからです。

 もしも差があるとすれば、それは私達の側の神様を愛する愛の方にあるのではないでしょうか。