キリストの身体は一つ

エフェソの信徒への手紙第4章1〜16節
4:1そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、 4:2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、 4:3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。 4:4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。 4:5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、 4:6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
4:7 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。 4:8 そこで、
「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、
人々に賜物を分け与えられた」
(注:詩篇68篇19節参照)
と言われています。
4:9 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。 4:10 この降りて来られた方が、すべてのものを満たす(原文では現在進行形)ために、もろもろの天(当時ヘブル世界では天を3〜7階層に分けて考えていた)よりも更に高く昇られたのです。 4:11 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 4:12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間(教会という生命体に人間の発達段階を喩えて)になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 4:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者(口語訳=未成年)ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、 4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り(保ちor歩み)、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

YACCOのメッセージ

人の価値
教会形成と、成長を支えるもの

エフェソの信徒への手紙
 今回は、エフェソの信徒への手紙から教会形成について学んでいきたいと思います。
 この手紙は、パウロがローマの獄中において、各地の教会に異端が起こり混乱が生じていると伝え聞いたことに、エフェソの教会へ宛てテキコに届けさせた書簡であると伝えられています。ところが、手紙にはどこを見てもエフェソの名は出てきません。このことから、現代ではこの手紙が特定の教会に向けて書かれた手紙ではなく、エフェソをはじめとした諸教会に向けて一般化して書かれた手紙であろうとする考え方が主流です。およそ手紙を託されたテキコが教会を訪れてはコピーを作成し、コピーが終わっては次の教会へと巡ったのであろうと推察されるのです。つまり、題名こそ後の時代に「エフェソの信徒への手紙」と付けられはしましたが、実際のところは諸国のすべての教会に向けて書かれた手紙として読む読み方が、著者であるパウロの意図を汲む読み方であろうと解することができます。で、あればこそ時代を超えて今日の私たちの教会にも多くの示唆を与えてくれる手紙として読むことができるのです。

今も新しいパウロのメッセージ
 皆さんもご存じのように、この「エフェソの信徒への手紙」以外にも、パウロの手による多くの手紙が新約聖書の中に収められています。ローマ、コリントT、コリントU、ガラテヤ、フィリピ、コロサイ、テサロニケT、テサロニケU、テモテT、テモテU、テトス、フィレモンの信徒への手紙がそうです。これらの手紙が新約聖書の聖典として収められたのは、古くから各地の教会がこれらの手紙をコピーし、大切に保管してきていたことによっていますが、それ以上にその内容が、多くの教会にとって意義深い教えを含んでいたことに他なりません。パウロのメッセージは、今日も色あせることなく生き続けているのです。

生まれたての教会の脆さ
 パウロは3度に渡る伝道旅行を通し、地中海沿岸に多くの教会を興しました。そしてパウロは、それぞれの地にしばらく滞在して、生まれたばかりの教会が主を見失うことなく自立的な歩みができるようにと養っていきましたが、牧者であるパウロが新たな開拓伝道に赴いてしまうと、信徒の間に多くの迷いが起こり、主なる神への信仰を見失うことを繰り返していたようです。そのためにパウロは諸教会の誤りを軌道修正し成長を助けるべく、多くの手紙を書き送りました。

教会の性質
 私たち人間が生を受けて親の養いのもとで成長するように、教会もまた成長していきます。発展成長するものとしては、人間や教会の他に会社などの事業を挙げることができます。会社の場合、そこに強烈なカリスマが存在する時には、ある程度の成長を遂げたとしても、カリスマが一たび方向を誤ったり倒れたりすると、突然破綻してしまうということは決して珍しいことではありません。一見すると教会は会社組織と似通った部分が多くあるように見えます。しかし、教会はむしろ家族に近い群れであるとパウロは多くの手紙の中で強調します。

教会を訪れる人
 教会を訪れる人の多くは、会社や職場、社会や家庭で強いものに苦しめられたり、自身がその強さを持てないことに苦しみ、疲れ果ててきた人たちであるということができます。別の言い方をすれば、時代や社会情勢によって左右されるような価値ではなく、揺るぎない人生の価値を求める人たちです。人の世に砕かれ、己の弱さを認めることを通して、真理を見つめる目を開かれた人なのです。そして、己の弱さを自覚することによって自分の力で強くなろうとすることを捨て、何者にも勝る強さを持っておられる神様に委ね、依り頼む人生へと変えられていった人達です。

野心や誘惑に弱い人の脆さ
 しかし、人はその弱さの故に誘惑に対しても弱く、心のどこかで強い者に成りたいという野心を捨てきれないでいたりします。教会は己の弱さを自覚した人々の集まりですから、他者に対して強い調子で要求したり、指示をする人は殆どいませんが、時にそこに己の強さを誇示しようとする誘惑に駆られた信徒が登場することがあります。確かに、社会にあっては力の強い者、声の大きな者が人の上に立ち、名誉や地位を笠に着て下の者を支配する図式が存在するのでしょうが、教会にあっては、その図式は必ずしも当てはまりません。もっとも、過去、ローマ帝国時代後期にカトリック教会がそのような上下関係の図式の中で教会を形成し、教会が軍隊を持ったり、裁判をしたり、民衆に処罰を下したりなど強権政治を展開したことがありましたが、それは大きな誤りでした。何故なら、当時の教会はローマ帝国政治の片棒を担ぐ見返りとして、帝国によって地位を保証される利害関係の上に成り立っていたからです。

人の上に立つ
 イエス様は、「人の上に立つ(導く)者は、人に仕える者となりなさい」と、仰いました。そして、十字架に渡される夜、弟子たちを集め、自ら弟子たち一人ひとりの足を洗う行為によって具体的にその態度を示されました。これが、聖書の示す真理です。
 人の上に立つということは、上役に目をかけてもらって任命してもらうのではなく、下に仕えることを通して押し上げてもらうものであるという考え方です。聖書の語る立身出世は、トップダウンではなく、ボトムアップなのです。そして、上に行けば行く程、ますます下に仕える者とならなければならないというのが聖書の教えなのです。
 そんなに多くはありませんが、私にも職場には部下がいます。できる限り、イエス様に倣(なら)って部下の足を洗う者でありたいと務めていますが、私がそうすればする程に部下達は一生懸命私を支えてくれようと頑張ってくれます。私自身も、かつての上司(クリスチャン)にそうやって育てていただきましたが、互いに感謝し合う関係の中で、イエス様の教えに間違いのないことを日々実感させられています。

カトリック教会における内部告発
 さて、カトリック教会の長い歴史の中で、教会の誤りを正し、聖書の真理を取り戻すために命がけで立ち上がったのが、宗教改革者と呼ばれるマルティン・ルター(ルーテル)でした。ルターは、カトリックに楯突いた者として後に「プロテスタント=抵抗者」と呼ばれましたが、ルターの目的はカトリックに楯突くことではなく、カトリックの誤りを正し、教会を原点に立ち返らせることにありました。その意味では、プロテスタントと言うより、リセッターあるいはリスターターと呼ぶ方がより的確であろうと言う気がします。しかし、カトリック教会は誤りを正すどころかルターを異端として追放し、暗殺すら企てたのです。当時、ルターはドイツの神学大学教授の要職にありましたから、お上に反旗を翻(ひるがえ)した謀反人としてカトリック教会の恥と受けとめられていたのでしょう。ルターにとって、こうしたカトリック教会の反応は悲しいものであったに違いありませんが、同時に多くの隠れた賛同者に匿(かくま)われたことは、一方で大きな喜びでもあったことでしょう。

見上げるべき唯一のカリスマ
 聖書は神の下に人は平等であると教えます。しかし、カトリック教会には法王(教皇)をはじめ、聖職者の間に様々な階級が存在します。人の社会において三角形をなすヒエラルキーの頂点にカリスマを置くことは、システムとして分かりやすく、また指示命令系統として優れていると言うことができます。目指すべき頂点、あるいは御旗の徴(しるし)が具体的に見えることは、見上げる者達にある意味安心感を与えるものだからです。しかし、私たちが見上げるべき頂点は、人ではありません。私たちの見上げるカリスマは三位一体の神様でありイエス様をおいて他にあってはならないのです。ところが、神様はこの世にあって私たちにが目にすることのできないお方です。私たちは目に見えない空気や電波の存在を信じることはできても、目に見えない神様を信じることの難しい者です。

仕え合うこと
 教会も組織が大きくなればなるほど、体制を維持するために人々を束ねる役職が必要になってきます。そこで、教会には聖書の教えに従って牧師以外に長老、執事などと呼ばれる者が選出されています。しかし、これらの役職は上下の階級を表すものではありません。イエス様が身をもって教えられた通り、「仕える者」として信徒の中から選ばれた者です。尤も、その仕える者は誰でも良いわけではありません。神様への信仰と希望と愛の上に堅く立っている(霊的に優れている)者であることが求められます。

それぞれの果たす役割
 私たちは教会で、お互いのことを兄弟姉妹と呼び合いますが、それは、教会が神様を父として連なる家族であるとの教えに立っていることによります。
 さしずめ神様を父とし、イエス様を母(人として男性ではありましたが豊かな母性を示して下さった)、牧師を長兄(姉)、長老を次兄(姉)、その他一般信徒を弟妹として喩えることができるでしょう。
 同時に牧師は神様からみことばを預かり伝える預言者であり、福音の宣教者であり、弟妹を養い守る牧会者であり、道を誤らないように諭す指導者です。また、長老は長年の信仰と霊的養いの上に教会の良識を果たし、牧師の牧会を補佐する者でもあります。そして、執事は教会の財産を管理・運用する番頭の役割を担う者達です。ただし、これらの働きがすべて牧師や長老や執事のみに与えられているわけではありません。ルターはこのことについて「万人祭司」の考えを明らかにして兄弟姉妹が平等であることを強調しました。つまり、牧師だけが預言者や宣教者や指導者の役割を担うのではなく、長老だけが牧会を補佐するのではなく、執事だけが財産を管理するのではないということです。時には信徒皆がお互いを補完し仕え合う柔軟な態度が大切だというのです。

幼子に学ぶ
 イエス様が信仰について「幼子に見ならいなさい。天国はこのような者達のものである」と教えられたように、教会生活において私たちは幼子の信仰に教えられたり、一般信徒の奉仕や祈りに支えられていると感じ、悔い改めさせられることが多々あります。その意味では、教会は牧師が支えているのでも、長老が支えているのでも、執事が支えているのでもありません。一般信徒によって支えられているコミュニティーなのです。

成長の条件
 パウロはこのエフェソの手紙の中で、「身体は一つ、霊は一つ、希望は一つ」であると教会の在るべき姿を教え、それは「一人の主、一つの信仰、一つの洗礼」によって維持されると教えています。つまり、私たちが作り上げる教会という一つの身体は一人の主につながれ、聖霊の御(み)助けによって信仰が一つとされ、イエス様の十字架のあがないによる永遠の命への希望によってただ一つの洗礼に与(あずか)るものとされているということです。私たちクリスチャンは、このことに一致する者達の集まりなのです。
 そして、ルターとほぼ同時代を生きたフランスの宗教改革者カルヴァン

「キリストの身体につながれていようと思うならば、なにびとも自分だけで何ものかであることは許されず、われわれのすべてが他の人々のためでなければならない。それは愛によってなされることである。愛の支配しないところには教会は建てられず、ただの混乱があるに過ぎない。」


 と語っているように、私たちが一つの身体として教会を形成するためには、信徒が相互に愛によってつながっていなければならないこと、そうでなければたとえ教会が誕生したとしても、教会は成長することができないということを肝に銘じておかねばなりません。

身体を構成するさまざまな部分
 言うまでもなく、身体はさまざまな部分によって構成されています。教会員の誰もが「教会の頭になりたい」と願いそうなったとしても、頭だけでは歩くことができません。逆に、誰もが「教会の足になりたい」と願ったとしても方向を考えることなしに歩み出すことはできません。また、誰もが「教会の手になりたい」と願ったとしても腕が教会に繋がっていなければ神様に喜んでいただける奉仕とはなりません。そしてこの他にも、身体には多くの部分があります。目や耳や鼻や口は勿論のこと、爪や髪、心臓や、肺や、肝臓など。中には一見すると何のためにあるのか分からない、例えば男性の乳首や、盲腸など、無くても良いのではないかと思われる部分さえ在ります。しかし、一見なんの働きもなしていないかのように見える部分であっても、実は大切な機能を果たしているのかもしれないのです。

蟻の社会
 例えば、蟻の社会になぞらえてみると、働き蟻の労働割合は、良く働く蟻が60%、普通に働く蟻が30%、殆ど働いていないと見える蟻が10%で構成されているそうです。人為的に相当数の蟻をその場から取り除き割合を崩してみたそうですが、残された蟻たちによってやはり60対30対10に再構成され、その割合が保たれたそうです。
 この研究からこの研究者は「働いていないと見える蟻も何か大切な機能を果たしているのであろう」と結論づけました。もしかすると人間の社会や教会も、全員が思いっきり奉仕したり働いたりするのではなく、適当に働く30%と、殆ど目に見える働きをしない10%の割合を保つことが、実は成熟した健全な姿なのかもしれません。

弱い部分こそ大切な部分
 教会の中で働いていないと見える人、それは人の目から見てそうなのであって、必ずしも神様がそう見ておられるとは限りません。また、人の目から見て社会に貢献しているとは思えない老人や病人、障害者や子どもなど、社会的弱者と呼ばれる人達が私たちの社会に不必要な存在かと言えば、決してそんなことはないでしょう。身体でも生命を維持している部分は最も弱い部分です。弱い部分であればこそ皮膚や筋肉に包まれて身体の奥深くに大切に守られているのです。どこにも身体の外に内臓をむき出しにしている人がいないのと同じです。弱い部分こそが実は最も大切な部分なのです。
 以前住んでいた北九州で、「なんで100万人の健常者の税金が、たった3万人の障害者のために注がれなきゃならないのか理解できない」と、障害者をまるでお荷物であるかのように言っていた人がありました。私は3%にも満たないその割合を蟻の10%に比べれば大した割合ではないのにと思ったりしましたが、それ以上に、その人が障害者福祉を「施し」という見方でしか意識できていないことに深い悲しみを感じていました。何故なら、その人が市の障害福祉課の担当者だったからです。

「障害」と「ハンディキャップ」
 日本ではさまざまな不自由を抱えた状態を「障害」と呼び、その人の有する特徴をまるで「差し障りがあり」「害ある」ものであるかのようにネガティブに表現してきました。「目が悪い」、「足が悪い」、「耳が悪い」などの表現も同じです。障害があることをさも「いけない」ことであるかのように表現してきたのです。
 しかし、欧米ではそのような状態をかえってポジティブに「ハンディキャップ=Handicap」という言葉で表現しています。ハンディキャップHand in Capから派生した言葉で、もともとはスコットランドで庶民がゴルフを楽しみ、パブで記憶をなくすほどお酒を飲んでも、きちんと精算ができるように、あらかじめみんなでお金を帽子に入れておき、足りない場合に、お金持ち(経済的に優れた者)が不足分を支払うという慣習から、競馬の世界に「重量負荷」という考え方を導入したことに由来しているんです。つまり、足の速い優れた競走馬に数ポンドの重りを架すことで平等感、公平感を保ったわけです。それがいつしか、ゴルフの用語にもなり、力に差のある者同士が一緒にプレイを楽しむために、互いの力の差を埋める工夫を表す言葉にも用いられるようになり、やがて、20世紀に入ってから人間の身体機能等の不自由な状態を表す言葉としても用いられるようになっていきました。つまり、ハンディキャップという言葉には、他に比べて優れた者にだけ与えられる「負荷」という意味が込められているのです。ここに、ハンディキャップつまりは「障害」に対する東洋と西洋の受け止め方の違いがあります。

優れた魂に与えられる称号
 作家の曽野綾子さんは20年間に渡って毎年、ハンディキャップ難病を抱えた方々のためのイスラエル聖地ツアーを主催しておられます。ある年のツアーでヨーロッパの航空機を利用した時のこと、フライトアテンダント(スチュワーデス)から感謝の言葉を受けたと話しておられました。その言葉とは、「私たちにハンディキャップを持っている方々のお世話をさせていただく名誉を与えていただき、光栄です。ありがとうございました。」というものでした。これが、ヨーロッパにおけるクリスチャン達のハンディキャップに対する受け止め方です。
 ハンディキャップは、神様が優れた魂に対して与えられた負荷であるという理解の下に、神様がハンディキャップをお与えになる程に愛しておられる方のお世話をさせていただけること、そのことを「名誉なこと」として喜んで下さったというのです。フライトアテンダント達を突き動かしたのは、障害への憐れみからでも、施しからでも、まして仕事だからでもなく、神様に喜んでいただくための奉仕の心以外の何ものでもなかったのです。自ら進んで「私にさせて下さい」と願う心によって、彼女たちはお世話をして下さったのでした。

「障害」という観念がもたらす不幸
 日本ではどうでしょう。日本では、「障害」は、その呼び名が示す通り、不幸なこととして受けとめられ、ひとたびそうした子どもが生まれようものなら、祈祷師のもとを巡ってお祓(はら)いをしてもらったりなど、呪いやたたりが原因であるかのように考える人が、いまだに多く存在します。親や子ども以外に障害の原因を求めたいと願う親心は痛いほど分かります。だからと言ってたとえお祓いをしてもらったところで、「障害=不幸」という社会通念の中で生きていかねばならないという現実は変わりません。
 イエス様は弟子たちから「この人が生まれつき盲人(障害者)なのは本人の行いによる報いでしょうか、それとも親や先祖の報いによるものでしょうか」と尋ねられた時に、「神の栄光が現れるためです」と仰いました。このことからも判るように、障害が不幸なのではなくて、障害をを取り巻く社会通念こそが、親子を不幸にしていることに私たちは気付かねばならないのです。

多様であることの恵み
 教会は神様を愛する者達の集団であると同時に、神様に愛され呼び集められた者達の集団でもあります。対して会社や職場は採用試験によってある程度ふるいにかけられ、人によって選別された者達の集団であるということができます。勿論、教会に採用試験があるわけではありませんから、そこに集められた人たちは会社のように選別され均質化された人たちではありません。実にさまざまな年齢、さまざまな生活歴、さまざまな価値観、さまざまな個性を持った方々が集っておられます。そのような一人ひとりの多様性の故に、教会は一致することが極めて難しい集団であると言うこともできるのですが、ただ一点において一致できるものを皆が持っています。それは、主なる神様への信仰と希望と愛です。つまり、そこに色んな個性が混在していたとしても「きっと神様は○○することを喜んでくださるに違いない」という点に一致できるわけです。教会で議論することは、「何を神様が喜んでくださるか」であって、「私やあなたが何が好きで何が嫌いか」ということではありません。
 一人の主を見上げ、一つの信仰に一致しながら、教会員一人ひとりの多様性が、実は生き生きとした教会を形成するこつでもあります。さまざまな個性の持ち主が、さまざまな角度から一人の主を見上げ、主の御旨(みむね)を推し量っていくことが、多様性に秘められた価値であるといえましょう。もしも教会が「右向け右、左向け左」に一糸乱れない均質化された集団になってしまったなら、没個性化した魅力のないものになってしまうのではないでしょうか。

それぞれの賜物によって
 先にもお話しした通り、教会は一つの身体です。神様が与えられた賜物によって、一人ひとりが教会という身体の部分を支える構成員となります。時には足が耳の代役を務めたり、手が舌の代役を務めることもありますが、そうしたことを通してお互いが補完仕合いながら一つの生命体としての機能を果たしていくのです。生涯にわたって同じ部分の働きをする者もあれば、次々とあらゆる部分の働きを担っていく者もあるでしょう。また、多くの部分の働きを同時に果たす者もあれば、ひっそりと身体の奥に隠れたところで目に見えない働きをしていく者もあるでしょう。中には奉仕らしい奉仕もできず、自分が教会に必要とされている存在とは思えないと感じる者があるかもしれません。しかし、教会は会社や工場のように営利を目的とした集団ではありません。一人ひとりが神様の御意思に導かれ群れに加わった家族なのです。そして、神様は私達を何ができ何ができないといったことで差別される方ではありませんし、できる者だけを選んで愛するような依怙贔屓(えこひいき)をされる方でもありません。

人の価値
 デイヴィッヅ・ハープで作った「みんな神様に愛されているんだ」という歌の歌詞にも織り込んでいますが、「大きい:小さい」、「強い:弱い」、「上手:下手」、「知識や経験の多さ:少なさ」は神様にとって人の価値を決める基準ではありません。神様は一人ひとりの、私たちの存在そのものを愛して下っています。何故なら、私たちが神様によってつくられた命に生きている神の作品だからです。そして、神様の評価・判断基準は、私たちがどれだけ神様に信頼し愛しているかということによっていますし、それは神様にしか判らないことです。
 ある一人の人が自分を教会に必要な存在とは思えなかったとしても、その人が教会に来ているだけで嬉しく感じる人があったり、その人の存在を支えにして生きている人が必ず存在しています。それが、教会なのです。

 そして、神様は私たち一人ひとりに「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛する。(イザヤ書43章4節)」と仰って下さるのです。