タラントン

【マタイによる福音書25章14〜27節】 「ムナのたとえ」ルカによる福音書
 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕(しもべ)たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出かけた。
 早速、5タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに5タラントンを儲(もう)けた。同じように、2タラントン預かった者も、ほかに2タラントンを儲けた。1タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

 さて、かなりの日が経ってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと精算を始めた。まず、5タラントン預かった者が進み出て、ほかの5タラントンを差し出して言った。
 『御主人様、5タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに5タラントン儲けました。』
 主人は言った。
『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 
 次に、2タラントン預かった者も進み出て言った。
『御主人様、2タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに2タラントン儲けました。』
 主人は言った。
『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
 ところで、1タラントン預かった者も進み出て言った。
『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
 主人は答えた。
『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、10タラントン持っている者に与えよ。誰でも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
YACCOのつぶやき
「タラントンが足らんと?」
中学時代、シンガー・ソングライターになりたいと思っていました。小学生の頃は漫画家になりたいと、手塚治虫や藤子不二雄、赤塚不二夫、石森章太郎の模写をしていましたが、小学時代に習っていたエレクトーンがもとで中1の春に幼なじみからキーボーディストとして誘われ、バンドに入りました。そこで、ギターという楽器に初めて触れて、質屋で中古ギターを買いました。幼なじみと結成したバンドは、初めからオリジナルを創作するバンドだったんですが、作曲をする上での決まり事も何も知らない13才でしたから、できあがった曲はハチャメチャなもので、童謡にも及ばない拙いものでした。それでも、創って表現することが楽しくって、誰に聴かせるでもなく、メンバーだけでゲラゲラ笑いながら録音して楽しんでいたのです。
 小学生の延長で歌遊びをしていた中学1年生も、多感な3年生ともなると少し大人びてきたようで、だんだん人に聴かせることを意識して創作するようになっていきました。この頃から、少しずつシンガー・ソングライターになりたい。という思いが膨らんできたように思います。

 高校生になって、街角ライブに参加するようになり、様々な創作曲コンクールにも応募するようになりました。一次審査を通り、二次審査を通って最終審査に残ったりすると、本当に「プロに成れるかもしれない」なんて思ったりしたこともありました。けれど、井の中の蛙も大海を視せつけられると、とても泳げっこないってことが否が応でも分かります。出場したコンクールでチャゲ&飛鳥や世良政則が優勝するのを横目に視ながら、「かなわない」と挫折を味わいました。
この時、わたしの音楽人生は終わった・・・と、思ったのです。

 大学生になって、学友に誘われて演劇というものに出会いました。「もしかしたら、ここに新しい可能性があるかもしれない」そう思って、のめり込んでいきました。セミプロの劇団に所属し、俳優、脚本、演出を経験しました。小さな演劇スタジオで公演するうちに、スタジオから「大学を中退してスタジオ付きの演出家にならないか」と誘われました。条件は月8万円と少額ではありましたが、好きなことをしながら暮らせるならと、少し気持ちが揺れました。けれども、将来の保証が何もありません。そこで、自作で公演した芝居の脚本を岸田戯曲賞に応募し、入選したらこの道を選ぼうと決めました。しかし、その夢は果たせませんでした。
この時、わたしの演劇人生は終わった・・・と、思ったのです。

 大学4年生になって、就職活動に広告会社を選びました。大好きな絵と音楽と演劇の経験をディレクターとして活かしたいと考えたからです。しかし、大学の心理学科に籍を置く者にクリエイターを任せる会社はありません。営業部を勧められ、ディレクターの道をあきらめました。
そして、わたしのアーティスト人生は終わった・・・と、思ったのです。

タラントンは当時の通貨の単位ですが、イエス様のたとえ話からタレント(能力)の語源となった語でもあります。
素質という言葉があります。「素質がなければ、どんなに努力したってソコソコにしか成れない」と言う人があります。でも、本当にそうでしょうか。「ソコソコにしか成れない」という表現の中には、「ある一定のレベルの人たちと比べて」という意味が含まれています。この素質に当たるものを、キリスト教では、神様が私たち一人ひとりに与えてくださった能力としての恵み(タレント)、賜物(たまもの)と呼んでいます。賜物については新約聖書のコリントの信徒への手紙12章に知恵、知識、信仰、癒す力、奇跡を行う力、預言(説教)する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力と書かれていますが、書かれている以外にも讃美、祈り、援助、生み出す力(アイデアや技術)、育てる力、人々をまとめる力、書く(描く)力、調べる力、楽しませる力、仕える力、支える力、肉体的な力や技術、増やす力など、さまざまな賜物があります。聖書には、それは一つの霊(聖霊)によって与えられると記されています。

 神様がわたしたち一人ひとりに、この素質=賜物を与えてくださったのは、わたしたちが人と比較して優越感を得るためでも、誰かに劣等感を与えるためでもありません。まして、それによって私腹を肥やすためでもありません。それらはすべて神様に喜ばれるためなのです。

 神様からいただいた賜物を、わたしは自分が喜ぶために使おうとしていました。人との比較の中で、人より秀でることでプロとして生業(なりわい)をたてようと思っていたのです。ですから、同時にわたしは持てる賜物で讃美を作ることなど絶対にできないと思っていました。賜物を自身の満足のために使おうとする浅ましさに、どこかしら後ろめたさを感じていたのかもしれません。
 事実、作ろうとしても、誰かからの受け売りの歌詞しか書けず、自分の言葉として表すことができませんでした。どんなに綺麗な言葉を並べても嘘っぽいばかりで、歌として完成することができなかったのです。

 そんなある日、1996年の3月に今は亡き白波瀬協子さんが一編の詩をわたしに託されました。「祈ってごらんよ」です。協子さんは、「この歌を教会学校で子どもたちと一緒に歌いたい、だから曲を付けてほしい」と渡してくださったのでした。
 詩を見て驚きました。その詩は、どこにも飾ったところがなく、とても優しく、そして易しいフレーズで綴られていたのです。「目から鱗」とはこのことです。自分が、いかにそれまで人目を気にして「凄い」と言われるものを創ろうとしていたかを思い知らされました。人に聴かせる讃美では、讃美にならないってことを気付かされたのです。

 「これでいいんだ。何も飾る必要なんかない。自分のありのままの信仰を、ありのままに言葉にすればいいんだ。」と気付いたのです。すると不思議です。「祈ってごらんよ」を皮切りに、あれほど作れなかった讃美が次々と湧き上がってくるようになりました。作ろうとしなくても、神様が作らせてくださることを体験するようになったのです。ところがそうなると、幼なじみと一緒にやっているバンドの、人に聴かせる歌がだんだん作れなくなってしまいました。以前とは全く逆転してしまったのです。もしかすると、小坂忠さんも岩淵まことさんも、ある時期からそうなったのかもしれないなぁと思ったりしました。

 わたしたちは、一人ひとり神様から何らかの召命(神様によって召された生きる目的と意味)をいただいて、この世に生を受けています。それがなんなのか、自分ではなかなか解らないこともあります。解るまでに随分と時間を必要とすることもあります。

 あなたはいかがですか?神様からいただいているタラントン(賜物)をその手から離して土の中に埋めてしまってはいませんか?
 神様からどんなに素晴らしいタラントン(素質)を与えられていたとしても、その手で磨かなければ輝くことはできません。神様がお与えになるタラントンは誰にも、足らないことはありません。神様はあなたに十分なものを与えてくださっています。
 また、タラントン(素質)は、人との比較の中で磨くものでもありません。ただ、神様に喜んでいただくことを願って用いるとき、神様はより多くのタラントンをわたしたちに与え、その管理をゆだねてくださるのです。
「誰でも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」