種を蒔く人

マルコによる福音書第4章1〜9節 マタイ13×1-9、ルカ8×4-8
イエスは、再び湖の畔(ほとり)で教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まってきた。そこで、イエスは船に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。他の種は、石だらけで土の少ないところに落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。他の種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、他の種はよい土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。


YACCOのつぶやき
祈っ種! 実っ種!

のアンコール放送(12/9)を観ました。その昔、かつてうっそうとした森だった北海道の襟裳(えりも)を開拓した人々が、冬、暖を取るために森の木々を根こそぎ伐採してしまいました。そして、襟裳岬はあっという間に砂嵐の吹きすさぶ荒れ地へと姿を変えていきました。やがて、大地から吹き下ろす風は砂を海底へと運び、自生する昆布を死滅させようとしていましたが、昭和28年、昆布漁をしていた当時24才の飯田常雄(いいだつねお)さんら漁協の若者が襟裳の緑化運動に立ち上がりました。200ヘクタールにも及ぶ砂の大地に緑を根付かせようとしたのです。

 まず、牧草を植えるために、種を蒔きその上に風よけの葦簀(よしず)を敷き詰めました。しかし、岬の強い風は一夜にして葦簀も種も吹き飛ばしてしまいました。3年間頑張りましたが、何度やっても同じでした。ある時、海岸に打ち上げられている雑海藻の「ゴダ」を目にした飯田さんは、ゴダは腐れば地面に張り付くことを思い付き、蒔いた種の上にゴダを掛けてみました。2週間もすると、牧草の種は芽吹き、地面に張り付いたゴダがしっかりと牧草の根を守っていました。それから岬に住む50世帯の家族が総出で、何年も何年も牧草の種を蒔いては、その上にゴダを掛ける不屈の努力を続けたのだそうです。そうして、10年、20年の歳月を重ねるうち、200ヘクタールの砂地は見事な牧草地へと生まれ変わっていました。人々は砂嵐に苦しむことがなくなり、根腐れした昆布によって赤く染まっていた海も次第に青さを取り戻していったといいます。

 それから、本格的な植林が始まりましたが、水はけの悪い地層によって、植えた木は次々に枯れていきました。植林と共に水はけ用の水路を掘り、ようやく木々が育ち始めました。牧草の種を蒔き始めてから40年、森は甦りました。そして、森の腐葉土が作り出す養分が海へと流れ、かつて泥昆布と言われた襟裳の昆布は、高値で取り引きされる高級昆布へと変えられていったのです。森が豊かさを取り戻すと共に、海も豊かさを取り戻したのです。


今回の、イエス様のたとえ話には、イエス様ご自身によって、マルコによる福音書第4章14〜20節に解説が与えられています。


 
種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉(みことば)が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難(かんなん)や迫害が起こると、すぐに躓(つまづ)いてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人達は御言葉を聞くが、この世の思い煩(わずら)いや富の誘惑、その他いろいろの欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。

 種を蒔くだけでは、芽は出ません。もちろん、どこに蒔くかということも大切な要素です。しかし、神様の御言葉を蒔く時、私たちは相手の心の土壌(どじょう)が肥沃(ひよく)であるかどうかを、どのように推し量ればよいのでしょう。最初から良い土地だと解っていれば、種を蒔くことは容易(たやす)いですが、相手が良い土地であるかどうかを、見極めることは私たちに決して容易なことではありません。

 人の目から見て、とても良い心の土地を持っているとは思えない人であっても、ヤクザから足を洗って牧師になった人達だっています。逆に、とても良い心の土地を持っていると思っていた人が、思いの外(ほか)心の中に茨を沢山茂らせていたと後になって知ることだってあります。私たちは、私たちの目に、相手の心の土地が道端と映るから、石ころだらけと映るから、茨だらけと映るからと判断して、最初から御言葉の種を蒔くことをあきらめてしまっても良いのでしょうか。

 襟裳の人たちは、200ヘクタールの砂漠にも、へこたれず、あきらめませんでした。何度種を吹き飛ばされようと、葦簀(よしず)を敷き続けました。そして、ゴダを掛け続けました。ゴダが風よけを果たし、腐って栄養となり、牧草の発芽を促進しました。最初の牧草が腐って僅(わず)かな土の層を作り、翌年の牧草を養いました。十数年に及ぶこうした営みの中で、砂地はすっかり土に覆われていったのです。牧草の作り出した土が、木々の根を守り、木の葉が腐葉土になり豊かな土地へと変えられていったように、土地は変えることができるのです。道端に蒔いた種であっても、石ころだらけの土地に蒔いた種であっても、茨の中に蒔いた種であっても、蒔いた者が種を守る努力をしなければ、土地の状況が変わることはありません。時には道端のアスファルトをはがし、石ころを取り除き、茨を刈り取る土壌改良の努力を要することがあるかもしれません。徒労に終わるかもしれないと不安になるほど、途方に暮れる作業なのかもしれません。でも、そうしながら私たちがゴダとなって種の風よけになり、栄養にならなければ、
「蒔いた土地が悪かった」と言うだけに終わってしまうような気がします。

 どんな土地であっても、蒔きっぱなしにしないこと。その土壌の改良と、水を与え続けるための最も大切な働きが、
祈りなのだと思います。あきらめてしまえば、そこで終わりです。しかし、神様に不可能なことは一つもありません。良い土地に変えてくださる神様の御業(みわざ)に期待しつつ、祈り続けていきたいと思うのです。