たとえを用いて話す理由

【マタイによる福音書13章10〜16節】
 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなた方には天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの予言は、彼らによって実現した。

      『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
      見るには見るが、決して認めない。
      この民の心は鈍り、
      耳は遠くなり、
      目は閉じてしまった。
      こうして、彼らは目で見ることなく、
      耳で聞くことなく、
      心で理解せず、悔い改めない。
      わたしは彼らを癒(いや)さない。』

 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳はきいているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの予言者や正しい人たちは、あなた方が見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

この聖書のテキストには、イエス様がなぜ、
たとえを用いて話されるかについて
記されています。
弟子たちが、「あの人たち」と呼んでいるのは、
ユダヤ教の律法学者やファリサイ派のことです。

彼らは、先の時代に神様が旧約聖書に定めた
律法(りっぽう)を
文字通りに忠実に守ることでしか
神様からの救いは得られないと考えて、
少しでも律法に違反するとたちまち厳しい罰則を民衆に強いる、
戒律的なポリスのような人たちでした。
少しでもはみ出したことをすると
神の名において人々を鞭で打ったり、石で打って殺してしまったり、
ですから、一般民衆からは一目置かれて恐れられていた人たちです。

イエス様はそんな彼らに、律法は神の愛を成就するために
先の時代に定められたものであって、
それによって誰かを糾弾したり、
追いつめたりするものではないことを説かれましたが、
彼らは自身も強迫的に律法を守りながら
周囲にも完璧を求め、厳しく臨んでいたわけです。

イエス様は、
聞く耳を持たない彼らに、聞く耳を持たせるために
たとえ話を通して、彼らの信仰の矛盾を明るみに出し
答えに窮させ、矛盾に気づかせようとされたのです。

それでも聞く耳を持たない者には、きっとイエス様のたとえ話が
単なる皮肉にしか聞こえなかったかもしれませんが、
矛盾に気付けた者は、後にイエス様に従いました。
きっと、それまでの彼らにとって神様という存在は、
恐れの対象でしかなかったことでしょう。
しかし、イエス様のたとえ話から、神様というお方が、
実は愛に溢れた存在で
愛そのものであると気付くことができるのです。

びくびくしながら過ごす人生と、温かな愛にどっぷりとつかる人生とでは
いったい、どちらが幸せでしょう。
真の幸福とは、己の努力や修行によって得られるものではありません。
それは、神様の一方的な愛と、慈しみと、恵みによって与えられるものです。
ですから、わたしたちは、ただ信じて、感謝して生きればよいのです。

イエス様が、彼ら律法学者やファリサイ派にそのことを気付かせようとなさったのも、
イエス様の彼らに対する一方的な愛に他ならないのです。

あなたが、イエス様のたとえ話の中に、それを発見できたなら
あなたも神様の愛の中に、すでにとり囲まれているのです。
イエス様は、いつもあなたの心の扉をノックしておられます。