善いサマリア人

【ルカによる福音書10章25〜37節】
 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。
「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
イエスが、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」
と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、私の隣人とはだれですか」と言った。
イエスはお答えになった。
「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人が、そばに来ると、その人を見て憐(あわ)れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱(かいほう)した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡してこう言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」
そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


YACCOのつぶやき
隣人に、ならネイバー(neighbor)?

隣の家の人の名字と家族構成は知ってても、その人がどこの出身で、どんな仕事をしてて、何が好きで何が嫌いで・・・なんてこと、意外に知りませんよね。我が家には、四方隣に家がありますが、案外よくは知らないものです。

 昔、僕が幼かった頃、我が家は貧乏で2軒長屋に暮らしていました。今時、長屋なんて言って分かってもらえる人は少ないと思いますが、一つの建物で2つの世帯が暮らせるように一枚の薄い壁で隣家と仕切られた家のことです。近所にもそんな長屋が沢山あって、丁度、『巨人の星』の星飛雄馬の少年時代と重なる風景がそこにはありました。まぁ、我が家が特別に貧乏だったわけではなくて、国民の大半が貧乏だった、時代的な風景と言った方が良いのかもしれません。

 今、NHK朝の連続テレビ小説「てるてる家族」で、そんな時代を再現して見せてくれています。物のない時代、みんな隣の人のことをよく知っていました。だから、今より持ってる物は少なくても、お隣同士で足りない物を借りたり貸したり、貰(もら)ったり上(あ)げたりをしながら助け合って生きていたように思います。そうやって物を介しながら、お互いを知り合っていたのです。

 物が溢れている今の時代は、貸してあげられる物も、分けてあげられる物も豊富にあります。しかし、昔見られていた貸し借りをする姿は、現在のコミュニティーでは殆ど見ることがなくなりました。何故なら、24時間営業のコンビニやホームセンター、100円ショップなどでいつでもどこでも欲しい物が容易(たやす)く手に入るようになったからです。いつしか、隣の人に借りることが面倒になり、顔と顔を付き合わせたコミュニケーションを、億劫(おっくう)だと感じるようになってしまったような気がします。そうするうち、私たちは隣の家の人のことをほとんど知らなくなってしまったのではないでしょうか。

イエス様がたとえ話で
「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と語られたように、隣人になるということは、その人の素性をよく調べてから「この人を私の隣人にしよう」と、選ぶことではありません。私たち一人ひとりにとっての隣人は、私たちの人生のステージでいつ現れるかしれない人のことです。

 昔の隣家同士が助け合っていたように、互いに支え合う相手との出会いが隣人としての第一歩です。しかし、出逢ってすぐに仲良くなれるわけではありません。まずは、互いを知ることから始めなければなりませんし、実際、隣の家同士というのは数年〜数十年を同じ地域で過ごす相手同士でもあるのです。そういう意味で言えば、隣人と言う時、その関係はその場限りの刹那的な関係ではなく、相当の年月を共に過ごす相手であると言うことができると思うのです。

 追いはぎに襲われた人に最初に近づいたのは祭司でした。神に仕える身でありながら、重傷を負って半死半生の状態にある人を見過ごしにしてしまいます。やがてレビ人が近づきますが、同じようにあえて見過ごしにしてしまいます。双方とも襲われた人と同じユダヤ人であり、また厳格に律法を尊守することを声高に唱えている者の象徴として登場しています。対して混血のサマリア人は、当時、純血を主張していたユダヤ人、殊に祭司らに祭司階級の血統問題から分裂した異端教団として敵視されていた部族です。つまり、とうてい隣人には成り得ない相手として意識されていたのです。その意味では、質問をした律法の専門家にイエス様が突き付けた答えは彼の期待した答えではなかったと言えますが、彼は襲われたユダヤ人の隣人を自ら「サマリア人」であると認めざるを得ませんでした。

 追いはぎに襲われたユダヤ人にとってサマリア人は命の恩人です。事件のその後については何ら語られていませんが、死んでいたかもしれない命を救ってくれた相手に対して、「ありがとうございました」の一言だけですむはずがありません。助けてもらった恩を何かの形でお返ししたいと思うのが人情だからです。きっとこのユダヤ人は、部族間の敵対関係を超えて何かにつけ恩人のサマリア人を助けたに違いありません。そうやって互いを知り合い、支え合って生きていったと想像できるのです。

 サマリア人とユダヤ人の二人も、最初は見ず知らずの者同士でした。隣人との出会いとは、不意におとずれるものです。それは、私たちが目を皿のようにして助けを求めている人を見つけ出すことではありません。神様の導きによって何気ない日常の中で与えられる出会いです。ある時はサマリア人の立場で、またあるの時にはユダヤ人の立場でその出会いがおとずれるのかもしれません。そうした出会いをきっかけに、互いを知り合い、
助け支え合う間柄として生涯を共にする関係、それが「隣人になった」と呼べる状態であろうと思います。

 私たちは気が付いていないだけで、実はこうした隣人に出逢うチャンスを、人生の中で幾たびも経験しているのかもしれません。思い起こしてください。あなたにもきっと隣人と呼べる人がいるはずです。神様の導きはあなたに見えないところで働いているからです。やがて誰が私の隣人で、私が誰にとっての隣人であるかが分かってくることでしょう。もしも、自分のそばに隣人がいないと思う人がいらしたら、あなたの隣人はきっと教会にいることでしょう。何故なら、教会は神様によって隣人として集うために与えられている場所だからです。隣人となるために特別な技術や能力は必要ありません。ただ相手を思いやり愛する気持ちさえあれば、神様に祈ることを通して相手を支えることができるからです。

 また明日、私たちは新しく隣人となる人との出会いを神様に与えられるのかもしれません。