ファリサイ派と徴税人
ふぁりさいはとちょうぜいにん

【ルカによる福音書18章9〜14節】
 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。
『神様、罪人
(つみびと)の私を憐(あわ)れんでください。』
 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだるものは高められる。」


注:罪(つみ)=聖書の語る「罪」とは、法に触れる犯罪を犯したという意味ではなく、神様の教えに対しての的はずれな行いや思い、或いは神様に背を向けることを意味します。


YACCOのつぶやき
正しい振り逃げ、駆け抜けてもアウト!

 息子が所属している少年野球チームの保護者当番で、小学校のグラウンドで練習を見ていたときのこと。練習が始まる前、子ども達が器具庫からせっせと道具を出したりグラウンド整備をしている間、S君のお母さん監督となにやら話をしていました。間もなく話は終わり、お母さんは車で帰っていかれました。

 グラウンド整備が終わり、子ども達がランニングや柔軟体操などアップ(体を温める準備運動)を始めました。アップがほぼ終わりかけた頃、S君のお母さんが再び自家用車で小学校に来られました。お母さんの姿を確認して、S君監督に挨拶をし、荷物を持って駐車場へと向かいました。

 するとダッシュの練習を繰り返していたチームメイトが口々にS君に声を掛けました。

「もう、帰るの?」「本当に帰るの?」「なにそれ」「何しに来たんだ?」「意味ないジャン!」

 S君は、笑いながら手を振ってグラウンドを横切っていきましたが、少し離れたところでこれらの言葉を聞いていた監督は怒って子どもらを呼び集めました。

「誰だ、意味ないとか言ったのは?誰だ、手を挙げてみろ!」

 さっきまでワーワー言ってた子どもらが一気に静まりかえりました。みんな素知らぬ顔で、僕じゃないといった振りをしています。歩み寄ってきた監督が再び言いました。

「ちょっと、みんな集合!誰だ、意味ないって言った子は、手を挙げろ!」

 その時、何故だかみんなの視線が一斉に一番小さな3年生のA君に注がれました。それによって、監督の視線もA君に注がれました。しかし、場の雰囲気からA君は何も言うことができず固まってしまいました。監督は、名乗りを上げなかった子が他にもいることを知ってはいましたが、敢えて追求せずこう続けました。

「S君は家の用事で、どうしてもこの時間に帰らないといけなかったんだ。だけど、家の用事が終わったら、またやってきてみんなと練習をするって言っている。君らは、素晴らしいとは思わないのか?たとえ10分でも20分でも練習したいと思うS君の気持ちを、君らは素晴らしいと思わないのか?」

 そして、監督キャプテンを務める私の息子に

「Yくん、君だったらどうする。最初から練習休むんじゃないか?」
「はい。休むと思います。」
「そうだろう、何の連絡も無しに練習を休む人だっている。それに比べてS君はどうだ。大事な試合が目前にひかえていることもあって、10分でも20分でも練習したいと思ってるのに、意味がないとはなんだ。」「A君は、S君が来たら謝れ。それまで練習は見学だ!」


 練習が再開されました。間もなくアップが終わり、ひとしきりベースランニングの練習をして水分補給の時間になりました。それまで、立ちん坊で見学をしていたA君が、皆と水筒の冷茶を飲みながらポツリ、

「僕は、言ってないのに・・・」

 と、言いました。すると、エースで上級生のL君

「言ってないなら、言ってないって監督に言わなきゃ」

 その言葉にA君は勇気を振り絞って監督の前に立ち、涙ながらに

「僕は、言ってません」

 と言えました。

 再び監督が子ども達を呼び集めました。そして目をつぶらせ、S君を揶揄
(やゆ)した者は正直に手を挙げるようにと指示しました。今、手を挙げないで後で分かったら次の試合では使わないと言われ、しぶしぶ4人の子らが手を挙げました。当然その4人A君は入っていません。A君ははつらつと練習の輪の中に戻っていきました。
 それからしばらくして、保護者当番を交代したのでその後のことは分かりませんが、およそS君が再びやってきてから「監督に叱られたよ」と口々に報告したであろうと想像できます。しかし、あの4人のうちいったい何人の子が「S君、あんなこと言ってゴメン」と謝ったのでしょうか。

 人は、なかなか「私が間違っていました」「御免なさい」という言葉が言えません。アルバイトや仕事では客人に対して「すみません」「申し訳ございません」という決まり文句は言えるのに、どうしてなのでしょう。それって、もしかすると『私個人は何とかしてあげたいんだけど、会社の決まりで・・・すみません』とか、『当社は何とかしてさし上げたいんですが、取引業者がどうしようもなくて・・・すみません』とか、実はどこかに責任転嫁しながら自己を弁護する意味で簡単に言えているに過ぎないのかもしれません。

 このように、わたし達は台詞
(せりふ)化した謝罪言い逃れの謝罪は言えても、自分自身の責任として謝罪することに慣れていないように思います。例えば、交通事故を起こし被害者に謝罪しようと思っても、損害保険会社の人に「自ら否を認めるようなことになるので、極力謝るべきではない」とか、「保険会社の弁護士が同行するので余計なことを言わないように」などのアドバイスを受けたり、契約によって代わって誰かに謝ってもらう場合もあります。そんな便利を手にした大人達に囲まれて、子どもたちも自身の過ちに自分で責任をとることが、経験として乏しくなっているのかもしれません。大人も子どもも、相手の傷みに共感して謝罪することが、本当に少なくなっているのではないでしょうか?

 そして、誰かに謝罪を求められたり責められそうになると、わたし達は「どう謝罪しようか」を考えるより先に「どう言い逃れしようか」を真っ先に考えてはいないでしょうか?「子は親を映す鏡」そして「子どもたちは大人たちを映す鏡」です。

ファリサイ派とは、ユダヤの民を代表し、信仰と生活を指導する学者らを中心とした宗教的・政治的党派で、神殿を中心に据え祭司的伝統に固執する貴族階級のサドカイ派に対抗していました。ファリサイ派は、旧約聖書に記された「律法」「預言書」「諸書」だけでなく、聖書に記されなかった口伝
(くでん)律法も「父祖の伝承」として、自分たちに倣(なら)って厳格に遂行するよう、ユダヤの民への指導を強めていました。ファリサイ派はユダヤ人社会にあって尊敬の対象ではありましたが、一方で、そのあまりに強迫的な指導に反感を抱く者も多くありました。そしてファリサイ派によって神の名の下(もと)に罰せられることを恐れ、誰も意見や批判を口にすることができないでいたのです。

 一方、徴税人は当時イスラエルを植民支配していたローマ帝国に徴税を委嘱され、庶民から税を余分に徴収しては上前
(うわまえ)をはねていたことで、同胞を喰いものにする裏切り者として受けとめられていました。しかし、ローマを恐れた民は徴税人にも反抗できないでいたのです。
 当時、イスラエルの人々は、これら二つの力に監視され、抑圧されていました。つまり、彼らにとってファリサイ派と徴税人は、口にはできないけれど同胞の中で最も忌み嫌う種類の人間たちだったのです。

 さて、律法を厳格に守るファリサイ派にとって、徴税人は罪人(つみびと)の頭
(かしら)的存在でした。ですから、本来であればとっくに石打ち鞭打ちの刑に処したいところだったのでしょうが、ローマ帝国という後ろ盾の故に、表立っては批判できないでいました。そのファリサイ派が口にすることができないでいたタブー(禁句)を、イエス様がたとえの中でファリサイ派の祈りとして語られたのです。

 ファリサイ派の祈りは、「わたしほど神の前に正しく清い者はいません。」という祈りでした。それゆえ、ファリサイ派は臆面もなく神殿の最も前に進み出て天を仰いで祈ったのです。これに対して徴税人の祈りは「わたしほど神の前に罪深い者はいません。」という祈りでした。それゆえに、徴税人は神殿の最も後ろで首
(こうべ)を垂れて胸を打ちながら祈ったのです。徴税人の祈りにあってファリサイ派の祈りになかったもの、それは”悔い改めの心”でした。

 ファリサイ派の目から見て罪人(つみびと)の徴税人は、神に愛されるはずのない地獄行きの決まっている愚かな者でした。きっと、徴税人が神殿にいることすら「場違い」なこととして受け取っていたに違いありません。当の徴税人は、自分が周囲からどう見られているかを知っていました。同じユダヤ人でありながら、徴税という職務の故に、ローマの犬と疎
(うと)まれていることを知っていたのです。その鬱憤(うっぷん)を晴らすように徴収した税の、上前をはねてきた己の罪を悔い改め、神の前に「罪人(つみびと)のわたしを憐れんでください」(へりくだ)ったのです。

 ファリサイ派は自身を非の打ち所のない者と思っていました。しかし、己の正しさ故に相手を裁く、隣人への愛を欠いていることには気付けないでいたのです。イエス様の教えは律法を否定するものではありません。イエス様は「律法を完成する奥義として愛が必要である」ことを説かれたのです。そして「愛は律法にまさる掟
(おきて)である」ことを教えられたのです。
 極論ですが、もしも私たちが愛を失い、正しさによってのみ生きるとすれば、その正しさの故に、横断歩道以外のところを横切ろうとする老人を、車ではねて平気な顔で走り去るでしょうか?そうしておいて、「わたしは間違っていない。老人が愚かだったのだ。」と言うでしょうか?

 「わたしは間違っていない」「僕は間違っていない」”正しい振りをして逃げる”とき、保身のあまり、しいたげられ、反論できない小さな弱い存在に一斉に視線を浴びせ、追い込んでしまっていることがあるかもしれません。

 野球ルールにおける「振り逃げ」は相手チームのミスにつけ込む作戦で、駆け抜けて”
セーフ”になれば進塁が認められます。しかし、人生における「正しい振りをして逃げる」ありさまは、「振り」を見抜けない相手のミスにつけ込んで何食わぬ顔で駆け抜けることができたとしても、神様の目を欺(あざむ)くことはできません。「振り」に対する神様のジャッジは”アウト”以外にはないのです。
私たちは、罪に対してあまりに無防備で弱い存在です。だから、祈りましょう。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください」