【ルカによる福音書15章1〜7節】 ()はマタイによる福音書
 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「(これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔(みかお)を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。)あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心(みこころ)ではない。)


YACCOのつぶやき
Oh! 迷子(my God)の羊

2003。ですから、今年の最初に書くのは羊のたとえ話がいいかなと思って選びました。
 昨年の秋のある日、私の職場の隣にある保育園から電話がかかりました。隣なんだから、歩いてくれば良さそうなものを、電話をかけてくるぐらいですから、よほど慌てていたのでしょう。

 「4才の園児の行方が分からなくなりました。そちらの建物に行って迷子になっていないか捜してください。」

 構内放送をかけて、ドクターも看護婦も、セラピストも患者さんもみーんなで捜しましたが、それらしい子どもはどこにもいませんでした。警察に保護願いを出して30分が経過した頃、保育園の園長先生から電話がかかりました。

 「見つかりました。ちょっと園庭から外に出た隙に、誰かによって園庭の柵が閉められたようで、柵の開け方を知らなかった子どもが園内に戻れず、家に向かって歩いて帰っていたようでした。職員が道を歩いているところを捜し当てました。どうも、ご心配をおかけしました。」

 再び、構内放送で「迷子は見つかりました」と案内をして、それぞれが口々に「良かったねぇ」と言って一件落着しました。

 大切なものを失ったとき、
わたしたちはそれを探します。一生懸命探しても見つからないとき、お金で買えるものであればまだ諦めがつきますが、お金に代えられないもの、特に、それが命を持っていたりしたらとても諦められるものではありません。わたしのもの、あるいはわたしに託されたもの、つまり”わたし”に属するものが失われたときに、わたしたちは必死でそれを探し求めます。上述の園児も保育園という”わたし”に属する子どもでした。ですから、”わたし”である園長や保育士さんたちはきっと、必死だったことでしょう。

たとえ話の初めに、ファリサイ派の人々や律法学者たちが話の輪の中に徴税人や罪人が混じっていることを揶揄(やゆ)したことに対して、イエス様がこのたとえを語り始められたことが記されています。つまり、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「徴税人や罪人わたしたちに属さない者である」と、同席を許しているイエス様に不平を述べたわけです。
 これに対してイエス様は、既に群れに加わっている者ではなく、まだ群れに加わっていない者こそが神の愛を必要としている者なのであると、説かれました。

 子どもの頃、初めてこのたとえ話を聞いたとき、

 
『置き去りにされた99匹の羊からすれば、見失った1匹の羊を羊飼いがえこひいき”しているように感じられないだろうか』

 『羊飼いが一匹の羊を捜しに行っている間に、他の99匹の羊が、飼い主に危険な原野にほったらかされたと感じて散り散りになってしまったらどうするんだろう?』

 『羊飼いが留守の間に、本当に狼が群れを襲ったらどうするんだろう?』


 などと、考えたりしたものですが、実はそんな心配はいらなかったんです。
なぜなら、
群れに残った99匹の羊たちも、それぞれに、かつて羊飼いに捜してもらった経験をもっているからなのです。

 
見失った羊とは、もともと群れにいた羊のことではありません。まだ群れに入っていない羊のことです。

 そう言うと、百匹の中から見失った1匹の羊ではなかったか、との矛盾が生じます。その謎解きは、こういうことです。

 既にお解りのように、
羊飼いとはイエス様のことです。そして、百匹の羊はわたしたち人間(人類)です。そして、99匹の羊はクリスチャン(信徒)を意味し、見失った1匹の羊はノンクリスチャン(未信徒)を意味しています。
 もともと人間(百匹の羊)は創世記の時代に神様によって創造された存在ですから、
神様にとっては元々”わたし”に属する存在です。その”わたし”に属するべき存在が、迷子となって”わたし”のもとから離れているからこそ、本来入るべき群れへと導くために捜してくださっているのです。99匹の羊たちはそのことを知っているし、それぞれに自分自身も捜され、導かれた経験を持っているからこそ、”えこひいき”だとやっかんだり、羊飼いの留守に、”置き去りにされた”と不安を感じることがないのです。むしろ99匹が互いに強く結び、支え合いながら、羊飼いが連れ帰ってくるであろう、まだ見ぬ1匹の羊を心待ちにしているのです。

 ところで、既にクリスチャンであるわたしたち(99匹の羊)は、はたしてファリサイ派の人々や律法学者たちと同じように、まだ見ぬ1匹の羊が加えられることに”躊躇(ためらい)”を感じることがないでしょうか。
 躊躇う必要などありません。見失った羊を教会の群れへと導いてくださるのは主ご自身なのですから。わたしたち99匹の一人ひとりが、かつてそうであったことを思い起こしながら、ただ「喜んで」「感謝して」お迎えすれば良いのです。

 そして、まだクリスチャンではない見失った1匹の羊である
あなたを見つけ出すために、今日もイエス様があなたの名を呼んで誘(いざな)っておられます