良い羊飼い

ヨハネによる福音書 第10章7〜18節
 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
 盗人が来るのは、盗んだり、屠(ほふ)ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らかす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊を導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。
 こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群になる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。誰もわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。
 わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟(おきて)である。」


YACCOのつぶやき
”パッション”人生のナビゲーション

アメリカ版公式サイト”パッション”を観ました。"PASSION"は一般に「情熱」と訳されますが、特別に「キリストの受難」を表す場合にも用いられる言葉です。由来は分からないので推測ですが、およそ「最上級の情熱」として、イエス・キリストの「受難」を表すようになったのかもしれません。あるいは、逆に「キリストの受難」をその情熱のゆえに「情熱」として一般に用いるようになったのかもしれません。この映画は、イエス様の示された最上級の情熱がいかなものであったかについて、聖書記事を忠実に映像化した秀作であると私は思いました。

 その暴力シーンゆえに、バイオレンス映画としてみる向きもありますが、現実、血の流れない戦争がないように、この世に美しい暴力など存在しません。フィクションの世界でことさらに暴力が強調されるのは好ましくないことですが、反対に歴史的事実として人が行ってきた暴力を、美化したり、ぼかしたり、目を背(そむ)けるべきではないとも思います。当然いくら歴史的事実(ノンフィクション)ではあっても、判断の未熟な子どもにそうした暴力を見せるべきでないことは、言うまでもありません。
 私達は、暴力が観たいわけではないのです。暴力に人の愚かさを知り、自身の中の心の闇と弱さに気付き、認め、神様に依り頼まないではいられない存在であることをこそ、心に刻むべきだと思うのです。

 イエス様がローマ兵に鞭打たれるシーンは、それは惨(むご)いものでした。いたぶるように、弄(もてあそ)ぶようにイエス様を鞭打つローマ兵の笑い顔が、シーンをさらに惨たらしいものにしていました。しかし、これは単にメルギブソン監督の演出なのでしょうか?
 このシーンを観たとき、私はニュース映像に見たイラク人捕虜を虐待するアメリカ兵の笑い顔を想い起こしていました。およそ人が本質的に変わっていないとしたら、2000年前もきっと同じであったに違いありません。だとしたら、メルギブソン監督が聖書の行間に想像したあの鞭打ちのシーンは、「近からずも遠からぬものであったろう」とは言えても、「あんなに酷(ひど)くはなかっただろう・・・」とは誰にも言えない気がするのです。実際にはもっと酷かったのかもしれないからです。

今回の譬えのなかでイエス様はご自身の「パッション=受難」を予言しながら、その目的と意味についても語っています。

 イエス様は「わたしは良い羊飼いである」と言います。この譬えを通してイエス様が語ろうとしているのは、@飼い主の守りと導きがなければ、すぐにも狼の餌食になってしまう「羊は弱い存在である」こと、A現実の羊飼いとは逆に、「羊に命を豊かに与えるために、羊飼いが命を捨てる」こと、B「羊飼いは羊一匹一匹の声を聞き分け、羊は飼い主の声を聞き分ける」こと、そして最後にC「羊のために命を捨てた羊飼いが復活する」ということです。

 ”羊飼い”ではない自分の羊を持たない”雇い人”とは、6節に登場するファリサイ派を比喩した言葉ですが、これは同時に”人間”として読むこともできます。譬えの中でイエス様が「数いる羊飼いの中で、わたしは良い羊飼いである」と他と比較する形で語っていないことからも分かるように、”羊飼い”は一人しか存在しないのです。だから”雇い人””羊飼い”になろうとすれば、”盗人””強盗”に変わってしまいます。”雇い人”は到底”羊飼い”にはなれない、つまり、”人間”は”救い主”に代わることができないことを意味しているのです。
 そして一人しか存在しない羊飼いのもとに羊を誘(いざな)うのが”雇い人”の務めです。当時この役目を果たすべき立場の者達は、ファリサイ派をはじめとするユダヤ教の律法学者や祭司たちでした。しかし、イエス様の公生涯を通して、羊を豊かに生かす囲いの門が開かれたにもかかわらず、”雇い人”は羊をその囲いに誘わず、”狼”(=悪魔)の危険に曝(さら)したままにしていたのです。それどころか、自分たちが”盗人””強盗”となって羊を喰いものにし、自身の利益をばかりむさぼっていることに警告を与えようと、この譬えを語られていることが6節以前の記事から分かります。

 ”良い羊飼い”それは、私達人類の創造主である神様であり、父なる神様と同質にして一体であるイエス様ご自身のことです。ご自分で生み出された命であればこそ、親が子を弄んだり好きにしたりすることがないのと同じに、ここで語られる”良い羊飼い”は羊の毛や乳や皮や肉をむさぼることはありません。(尤も、昨今の児童虐待ではこのような、あってはならないことがあっていますが・・・)
 ”良い羊飼い”は羊から何かを得ようとするどころか、私達羊のために命をさえ捨ててくださったのです。これは、「完全な保護者」あるいは「完全な庇護者」としてのイエス様の愛に他なりません。

 メル・ギブソン監督自身、このに救われた一人でした。それ故、一人でも多くの人にイエス様の愛を伝えたいと強く願い、約30億円にもおよぶ私財をなげうって映画”PASSION”を制作したと聞きます。
 この映画は、すでに囲いの中に加えられている私達クリスチャンには、イエス様の愛が魂を貫くほどの痛さを以(も)って伝わってきました。しかし、イエス様が「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊を導かなければならない」と語られた羊達にこそ伝えたいと、メル・ギブソン監督はこの映画を世に送り出したのです。

 映画”パッション”を通して、世界中で多くの方が真実の”良い羊飼い”の声を聞き分け、クリスチャンとなる決心をなさったのではないかと思います。
 イエス様は言います、「わたしは自分の羊を知っている」と。イエス様は私達一人ひとりの声を聞き分けてくださり、私達一人ひとりの罪を贖(あがな)うために「命を捨てる」と約束し、十字架にかかってくださったのです。

 まだ御覧になっていない方は、今秋発売予定のビデオ・DVDで是非御覧になってください。
あなたも、”良い羊飼い”の声を聞き分けられる羊として、すでに神様に選ばれ、知られているお一人に違いないのですから・・・。