家と土台

【ルカによる福音書6章46〜49節】 ()はマタイによる福音書
 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わないものは、土台なしで地面(砂の上)に家を建てた人に似ている。(雨が降り、川があふれ、風が吹いて)川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
YACCOのつぶやき
「土台はどーだい?」
一昨年を建てました。家を建てる前に、建築予定地の地盤調査をすることになりました。
わたしの住んでいる鳥取は、県外の方に言わせると全部砂地ではないかと思われているようですが、そんなことはありません。砂丘はでっかいけど、県内の面積から見ればごく一部のことです。でも、じゃあ地下に固い固い岩盤があるかというと、そうでもありません。やっぱり砂と粘土質の土がほとんどだそうです。

 家を建てる時の基礎工事には大きく分けて「ヌノ基礎」と「ベタ基礎」、二つの工法があります。わたしの家はより強固な「ベタ基礎」工法を選びましたが、それだけでは不十分だと言われていました。というのは、家を建てようとしていた場所の地質が調査の結果、あまり強いものではなかったのです。ですから、基礎を作ってその上に家を乗せるだけでは不十分だったのです。

 そこで、地盤(柱状)改良を施すことになりました。建築予定地に直径60センチ、深さ8メートルの穴を40本ほど掘り、その中にミルクコンクリートを流し込んでガチガチの固い地盤に作り直しました。我が家は今、地下8メートルの40本の柱の上に建っていることになります。気のせいかもれないけど「おーっ、地面が固いぞ」って思えて、とりあえず、なんか、すんごく安心できました。
 10メートル掘ってもらってたら、もっと安心できたのかもしれませんが、半分の4メートルだったら、ちょっと不安だったかもしれません。
わたしたちはを見上げます。でも、根を見ることは殆どないでしょう。樹木は上にそびえ立つ自身を支えるために、わたしたちの想像をはるかに超える大量の根を地中に張っています。その量は見上げる地上の姿に匹敵するほどの膨大なものです。一本の麦でさえ、根を分解して一本に繋ぎ合わせると10,000メートルにも及ぶと聞いたことがあります。樹木ともなればなおさらのことでしょう。

 砂地の上に家を建てるより、岩盤の上に家を建てる方が良いに決まっています。しかし、いくら岩盤の上であっても、家がそこに乗せられているだけでは、地震がくれば家は滑って動いてしまいます。ですから、家を建てる時には岩盤を削って支柱を差し込み、家の土台(基礎)と岩盤とをしっかり噛み合わせておかなければなりません。岩盤と噛み合わせる支柱が深ければ深いほど、家はより強固なものとなるでしょう。

 このたとえは、信仰のあり方を示唆するたとえです。わたしたちが信じている神さまという存在が、人生の土台を据えるべき岩盤であると知っていたとしても、わたしたち自身が地面を掘り下げ、岩盤深く支柱を差し込む努力をしなかったなら、雨とわずかな増水でたちまち家は浮いてしまい、岩盤から離れ、流されてしまうことでしょう。ただ、「知っている」というだけでは、砂地の上に建てた家と同じなのです。
「知っている」ということと「分かっている」ということとは違います。そして「分かっていても」行わないならば、「知らない」ことと同じなのです。

 わたしたちが地上のできばえばかりに気持ちを奪われてしまってはいないか、岩盤にしっかりと”根差した”信仰を育てているかを、自身に問いかけてみるようにと、イエスさまが語りかけて下さっています。