「罪」

創世記第3章8〜15節
 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから。」
神は言われた。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。
「なんということをしたのか。」
女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
主なる神は、蛇に向かって言われた。
「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる獣の中で呪われるものとなった。お前は生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意をおく。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」

YACCOのメッセージ

性善説と性悪説
原罪によってもたらされた自由

・人間の本性とは

 少し前、「人の本性は生まれつき善なるもので、ゆったりとおおらかなものだ」とする、孟子の思想と、「人の本性は生まれつき悪なるもので、いつも欲求不満である」とする、荀子の思想が度々論じられたことがありました。いわゆる、「性善説と性悪説」です。

 生まれつきの本性、それはつまり、極論すれば生まれたばかりの赤ちゃんを「善」と見るか、「悪」と見るかと言うことですが、誰しも、生まれたばかりの赤ちゃんを見て悪の権化であるかのように見る人はいないと思います。

 「性善説」の立場を取れば、「人間は元もと善なる者として生まれながら、環境的に悪を学習する」ことになり、「性悪説」の立場を取れば、「人間は元もと悪なる者として生まれながら、環境的に善を学習する」ことになります。果たして、どちらが正しいのでしょうか。中国の仏教思想の中では孟子の「性善説」荀子の「性悪説」は真っ向から対立し、どちらが正しいかの結論は出ていません。理想的には孟子の「性善説」の立場を信じたいと願いながら、現実には荀子の「性悪説」で世の中を見なければこの世の解釈を誤るという視点を無視できないでいるのです。

 では、私たちが私たちの住まうこの日本を眺める時に、私たちはどのような日本人観を持って現実を見るのでしょう。

・日本人の姿
 最近の新聞を開くと忌まわしい事件ばかりが目に付きます。福岡の家族4人が殺されて海の底に沈められていた事件。夫の暴力から逃れるために身を隠している妻の居所を突きとめようと、妻の友人、知人を殺害し、「大きなことをしでかせば、妻に会えると思った」と語った夫による事件。これ以外にも、電力会社による原子力発電所の事故隠しや詐欺や脱税、車道で寝そべっていたことを注意されて暴行死させた20代後半の、大人と呼ばれるべき者達の暴挙。民間から登用された校長をつるし上げて自殺に追い込み、その事後処理に当たっていた教育委員会次長までをも自殺に追い込んでしまう体質。または、我が子の泣き声に我慢できず虐待を加える親達。数え上げればキリがありません。

 こうして見てみると「キレる」という言葉は、もはや子ども達の専売特許ではないようです。キレることを止められない大人達、我が身さえよければ他人のことなどお構いなしといった大人達の姿が、そこにはあるのです。
 こうした現実を目の当たりにして、私たちは「人の本性は生まれつき善なるもので、ゆったりとおおらかである」と、どうして言えるでしょう。

 確かにマスコミが取り上げる事柄は、ニュース性があるもの。つまりは「かつての理解とは異なる新しい出来事」ばかりがクローズアップさせれる傾向があるので、信じ難いような人目を引く記事ばかりが目に耳に飛び込んできがちです。ですから、本来、大多数の日常は新聞やニュースで報じられるような異常な現実ばかりではないのですが、それにしても最近報じられる事件は、これが本当に現実だろうかと思わずにはいられない事柄ばかりです。
 果たして、人間の本性は本当に孟子が言うように「生まれつき善なるもの」なのでしょうか。

・聖書の人間観
 神様はその質問に聖書の中で、明確に答えてくださっています。聖書が解き明かす人間観。今回は、それを皆さんとご一緒に学んでみたいと思うのです。

 まず、創世記第3章8〜15節を見る前に、創世記第1章27節を開いてください。そこには、こう記されています。

「神はご自分にかたどって人を創造された」

 お解りでしょうか?そこには、神様が「人間をどのように見るか」ではなく、「どのように創られたか」ということが記されてあるのです。どのように見るかと言うときには、既にあるものをどう理解するかということにななりますから、神様が理解する以前に人が存在していることになりますが、聖書によれば人は神によって創造されたものですから、神より前に存在することなどできません。

 聖書の人間観を知ろうとするとき、第1番目に、私たちは神様によって創造されたということを忘れてはなりません。
 そして第2番目に忘れてならないことは、神様がご自分にかたどって人間を創造されたということです。この「かたどって」という言葉は、原書に見る限り英語のimage(イメージ)に相当する表現が用いられていて、form(フォーム)という言葉で表されてはいません。つまり、この「かたどって」という言葉は、目に見える形を物理的にかたどったという意味ではなく、その性質を似せてかたどり、人間を創造されたということを表しています。それは神様が持っておられると同じように、私たちに「人格」をお与えになったということを示しているのです。そしてそれは、人間以外の動物には与えられなかったものです。

・罪によって
 創世記第3章8〜15節は、蛇にそそのかされて人類が初めて罪を犯した記述です。人類が初めて犯した罪、つまり
「原罪」によって私たちは死ぬものとなり、労苦するものとなり、産みの苦しみを味わうものとなり、エデンの東に追放されました。何故なのでしょう。神様は、私たち人間を神様に似せてお創りになったはずです。物理的にではなく、性質的に。
 神様の性質、それは一点の汚れも罪も存在しない性質です。その性質に似せて創られた人間が、どうして罪を犯してしまったのでしょう。

 神様の創られた人間は、純粋な心しか持っていませんでした。ですから、自ら罪を犯すことのできる者ではありませんでした。そしてその純粋ゆえに当然、疑うことも知りませんでした。そのような知識を与えられてはいなかったのです。正に私たちが今日目にする赤ん坊の姿そのものです。

 しかし、エデンの園に蛇が侵入し、エバをそそのかします。エバは蛇の促しによって食べてはならないと命じられていた「知識の木」からその果実を取って食べてしまいました。そして、エバは知識によって自らが罪を犯したことに気が付くのです。

 「罪」は、ヘブライ語でハマルティアと言いますが、もともとは「的はずれ」を意味する言葉です。エバは神様の指示、神様の信頼に応えられず「的はずれ」なことをしてしまった、そのことに気付いたのです。その直後、エバはアダムにも知識の実を与えて食べるように促しています。エバがどのような気持ちでアダムにそれを与えたかについての記述はありませんが、一人で罪を犯したことが心細かったのか、あるいは神様と同じに知識を手に入れることができることを積極的に勧めたのか、あるいは自分だけが神様に責められまいとして、もしくは罪を犯していないアダムだけが神様の恩寵を受け続けるだろうことに妬みを抱いたのか、いずれにせよエバの心には更に的はずれな思いがめぐったのだろうと思われます。

・予想外の事態?
 ところで、エバとアダムが知識の実を食べてしまうこのような事態、もっと言えばエデンの園に蛇が侵入する事態は神様にとって予想外の出来事だったのでしょうか。神様は「ああ、しまった。エデンの園に蛇が侵入してることに気が付かなかった・・・」とか、「いやー、まさかアダムとエバが蛇にそそのかされるとは思いもよらなかった・・・」との思いを隠しながらアダムとエバを戒められたのでしょうか。だとしたら、神様はまずご自分の失策をアダムとエバに謝罪しなければならないことになります。「この園に蛇の侵入を許してしまい申し訳なかった」あるいは「こんなことになるなら、蛇についてお前たちに知識を与えておくべきであった」と。また、もしも神様の失策によってこのような事態が引き起こされたのだとすれば、神様はご自身の力でそうした事実などなかったことにすることだってお出来になったはずです。しかし、神様はそうはなさいませんでした。それは、何故なのでしょう。

 それは、エバやアダムの失敗でもなければ、神様の失策でもありません
私たちが「エバやアダムが蛇のそそのかしさえ受けなければ」とか、「神様が蛇の侵入をお許しにならなければ人間が罪に汚れることはなかったのに」と、恨みを抱くことでも呪うべきことでもないのです。すべては神様の深い深い計画によっているのです。
 その深いご計画が、どのようなものであるかについては、15節以下にご自身によって述べられています。

・キリスト誕生と十字架の予言
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意をおく。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」

 この箇所は、聖書に記された最初のイエス様に関する預言です。この箇所で
蛇は「罪」を象徴する存在として登場しているのです。

 余談ですが、蛇の名誉のために言っておくと、蛇が悪魔なのではありません。あくまで蛇は罪を象徴するために用いられているに過ぎないことを覚えておいてください。私たちが蛇を見てエデンの園での原罪を思い出し、忘れてはならないと肝に銘じるのは良いことですが、蛇を悪魔の権化だと忌み嫌ったり闇雲に殺したりすることは良いことではありません。蛇だって神様に創造された生物の一種なのです。

 話を元に戻します。「お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意をおく。」と語られていますが、ここに記されている「お前」とは=「罪」と罪の結果もたらされる「死」を意味し、「女の子孫」は=イエス・キリストを意味します。ここで神様は「女の子孫」という言葉を用いることによってイエス様が人間の女から生まれることをも預言しておられます。神様はこのように語られることを通して「死とイエスの間にわたしは敵意をおく」つまり、「死に敵対する者として、後の時代にイエスを送る」と仰ったのです。

 次に、「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」とは、「イエスは罪と死を砕き、罪と死はイエスを砕く」と、「イエスが十字架上で人として死ぬことによって人類すべての罪をあがない、そのことによって人類が死に勝利し永遠の命に与(あずか)る者となる」ことを予言されました。そして予言の通り、イエス様が十字架上で罪と死に砕かれてくださったのです。

・罪の結果もたらされた「死」
 ここで、今一度、思い起こしてください。神はご自身の性質に似せて私たちをお創りになられました。しかし、私たちには蛇を通して純粋な性質の中に罪の性質が加えられました。そして罪の性質によって「死」がもたらされたのです。では、イエス様はどうでしょうか。イエス様は人としてこの世にお生まれになりましたが、その性質は神そのものです。一点の汚れも罪もない方です。罪がないということは、死がないことを意味します。しかし、イエス様は十字架上で人として死なれました。それは、ご自身の内に人類の汚れを、罪を入れることなしにはあり得ないことだったのです。そのあり得ないことを成し遂げて下さった、それはすべての人がその罪によって永遠の死に渡されることがないようにするためです。人類のすべての罪を身代わりとなって引き受けること、それはイエス様にしかできない業でした。罪を犯した者が「ついでに人類皆の罪も肩代わりしましょう」とは言えないのです。罪も汚れも、一点の曇りもない方だからこそ、肩代わりができたのです。そしてそれは、この世において過去にも未来にもイエス様以外に存在し得なかったのです。どんな聖人であっても、イエス様の身代わりとなることはできません。だからこそ、神様はひとり子イエス様をこの世に使わされました。

・原罪の意味と目的
 こうして考えてみると、性善説と性悪説、聖書はどちらの立場を取ると考えるべきなのでしょう。実は、
どちらも正しく、どちらも間違っていると言わざるを得ません。
 私たちは生まれながらに神の性質に似せて創られたものです。その意味では性善説が正しいと言えます。しかし、アダムとエバの行いによって、私たちは生まれながらに罪を犯す性質を持って生まれるものとされたのです。強いて言うなら、
性罪説と名付けられるのではないでしょうか。
 しかし、これまでにもお話ししてきたように、罪を犯す性質が加えられたのは、アダムとエバの失敗でもなければ、神様の失策でもありません。それらはすべて、イエス・キリストの罪のあがないへとつながっていく数千年、数万年、数億年にも及ぶ長い長い計画の始まりだったのです。

 私たちは生まれながらに神の性質に似せて創られました。しかし、それは似せて創られたのであって、全く同じに創られたわけではありません。そして、
罪を犯す性質を与えられることによって、悔い改めることのできるものとされたのです。
 悔い改めるとは、誰かの言いなりになるということではありません。自分で自分の行いを省みて、自分自身の決断として改めるという極めて主体的な事柄です。つまり、悔い改めるか否かを選択する自由が私たち一人ひとりに与えられているということでもあるのです。そして、「自由が与えられている」というのは「野放しにされている」ということではありません。「自らを由とする」ということは「自分勝手で我がままである」ということではなく、誰かによって「自己決定」、「自己管理」を認められているという前提がなければなりません。つまり、私のことについて責任を負うことが認められている状態、それが誰かの前に自由であるということです。神様は私たち一人ひとりにその自由を認めてくださいました。私たちは神様の前に自由なのですが、同時にそれは神様によって与えていただいた魂と命について、私自身に「自己責任」が生じているということでもあるわけです。

 神様は、ご自身の力によって人間をロボットのように言いなりにすることのできるお方です。にもかかわらず、私たちに悔い改めの自由を与えられたのは、私たちが自らの意思によって神様に立ち返ることを望まれたからに他なりません。

 
自由意思に基づいて、神様と向き合う時、私たちは初めて神様との人格的な交流ができるようになります。そして、神様は人との間にそのような関係を望んでおられるのです。

ヨハネによる福音書第3章16節
 
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。