イエス・キリストの再臨

マルコ13章24〜31節
◆人の子が来る
13:24 「それらの日には、このような苦難の後、
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、
13:25 星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。
13:26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 13:27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
◆いちじくの木の教え
13:28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 13:29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 13:30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 13:31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

YACCOのメッセージ

終末の徴と死
具体的な10の徴(しるし)

意識から遠ざけている死
 私たちは、健康である間、自分の命がまるで永遠に続くものであるかのように錯覚し、自身の死について、まるで考えようとはしません。しかし、健康診断で異常な数値が現れたり、身近な人の死に出会ったり、自分と年齢の近い人の死に出会うと、途端に不安を感じます。もっとも、だからと言って四六時中「自分は死ぬかもしれない」と思っていたのでは、不安でしょうがなくて何もできなくなってしまいます。だから、私たちは殆どの時間、自分が死ぬことについて考えないで過ごしていますし、どこかでそれを永遠に続くものであるかのように錯覚している部分があるように思います。
 しかし、私たちは自分がいつかは死ぬということを、確かに知ってはいるのです。その意味では、私たちは日々、死に向かって生きていると言えなくもありません。

終末に対する怯え
 そして、同じように私たちにとって考えたくないこと、しかし、考えておかねばならないこと、それがこの終末の問題です。
 聖書は人の一生に終わりがあるように、この世界にも終わり「終末」の時が来ることを教えています。これまでヨーロッパを中心に、世紀末の度に終末に関する社会不安が渦巻いて来ました。聖書に記された終末論が大きく影響を与えてきたと考えられますが、つい3年ほど前、私たちも20世紀末に終末を論ずる声を聞いたばかりです。殊に、我が国日本においては、五島勉氏が1973年に著した
『ノストラダムスの大予言』(祥伝社)によって、1999年に人類が滅亡すると信じた人が相当数いたと考えられます。予言された年の1月に行われた世論調査によれば、その時点で人類の滅亡を信じていた人が8.4%に達していました。8.4%と言うと少なく感じられますが、人口に照らして考えると実に1042万人、東京都民に匹敵するほどの人が、同年中の終末を信じていたことになりますし、信じるまではなくとも、もしかしたら・・・と、気にかけていた人は約半数にあたる48.3%にも上っていました。これも、人口に照らして考えれば5,989万人となり、信じていた人と合わせれば実に7,000万人を超える人がその年のうちに人類が滅亡するかもしれないと考えていたことになるのです。

 実は、私も五島勉氏の
『ノストラダムスの大予言』を購入した者の一人なんですが、当時、私は小学5年生でした。分からない漢字を辞書で引き引き読みながら、一人で「スゲー!」とか「ウォー!」とか「ゲゲッ!」と一喜一憂したのを憶えています。この『ノストラダムスの大予言』は後に続編も出版されて、総発行部数は数千万部を超える大ベストセラーとなった本でした。それほどに日本人に関心の高い予言書だったのですが、ノストラダムスの生まれ育ったフランスのプロバンスではどうかというと、一部の人を除いて殆ど知られてはいなかったようです。アメリカでもノストラダムスの予言を信じる人があまりいないことは聞いて知っていましたが、どうやら、ノストラダムスの予言を、これほど高い確率で信じていたのは日本人ぐらいのものだったようです。そういう意味では、98年に公開された映画「ディープ・インパクト」も99年に公開された「アルマゲドン」も、終末予言に最も関心の高い日本市場向けであったと言えなくないのかもしれません。

ノストラダムス
 さて、ノストラダムスを知らない方のために、彼の経歴について少し述べておきましょう。
 時は16世紀。
ミシェル・ド・ノストラダムスは1503年に当時ローマ領だったフランス:プロバンスのサン・レミで、収税吏兼公証人の父ジョムと母ルネの長男としてこの世に生を受けました。ミシェルは母方祖父ジャン(ユダヤ人の占星術医師)によって幼少のころから、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語、歴史、数学、天文学などを教わったとされ、ジャンの死後、父方の祖父ペイロ(ユダヤ系医学博士)がミシェルの教育を肩代わりしましたが、あまりの天才振りに手を焼き、14才でアビニョンの法王庁大学に入学させたと伝えられています。大学では高度の哲学と修辞学を学んでいたようですが、天文学に高い関心を持っていたミシェルはコペルニクスより30年も早く地動説を唱え始めていたと言われます。そのことでカトリック教会から異端視されるのを恐れた祖父ペイロによって、半ば強制的にモンペリュエの大学に入り直させられ、強制的に医学を学ばされました。間もなく1525年に医師免許を取得し、ペストの専門医として開業していますが、1529年にペストの臨床研究で博士号を取り、1534年に結婚しました。結婚の翌年に二人の息子が与えられますが、その2年後に妻と息子二人をペストで失っています。また、詳細は解りませんが、同じ年に異端審問にかけられ、カトリック教会から破門されています。しばらく放浪を繰り返しながら各地でペスト治療を行い、44才の年、1547年に資産家の未亡人と再婚して予言に関する研究に没頭し始めます。1550年に「暦−アルマナ」を出版し、1555年に「予言集」「初世紀」を発行したのです。

 それを翻訳し、それぞれに解釈を加えて我が国に発表したのが『ノストラダムスの大予言』の著者、五島勉氏だったのです。問題の
「人類滅亡の予言」「初世紀」第10巻の72に記された次のような一編の詩でした。

   
1999の年、7の月
   空から恐怖の大王が降ってくるだろう
   アンゴルモアの大王を復活させるために
   その前後の期間、マルスは幸福によって支配するだろう


 日本では再三マスコミにも取り上げられましたから、憶えておられる方がおありかもしれません。実際、この詩に人類が滅亡するなどということはどこにも記されていないのですが、五島氏はこの詩を人類滅亡の予言と解釈して結論付けたのでした。あまりにもおぞましい予言に、世界唯一の被爆国であった日本が「空から降ってくる恐怖の大王とは、放射能のことではないか」と過剰に反応してしまったのかもしれませんが、結果、殆どの日本人が「もしかしたら・・・」と、考えたのでしょう。

人類滅亡の年1999
 そして、私たちは1999年を迎えました。
その年は私の大好きな星野仙一率いる中日ドラゴンズが、5月からセントラルリーグを1位で独走していましたが、もしも7月に人類が滅亡するようなことがあれば、ドラゴンズの優勝は消えてなくなるのかなぁ・・・なんて、ほんのちょっぴり気にしたりしていました。
 ちょっぴり気にしていたというのは、私自身ノストラダムスを信じていたわけではないのですが、「もしかすると神様の終末の計画がノストラダムスの予言と、たまたま一致してしまう可能性は0ゼロとは言えない」という思いからでした。聖書に終末が予言されている以上、それはいつかおとずれることです。それは明日かもしれないし、明後日かもしれないとは言えても、明日ではない、明後日ではないとは断言できず、当然、1999年の7月ではないとも断言できなかったことによります。しかし、1999年の7月を迎える頃には、ノストラダムスの予言と五島氏が解釈したような人類の滅亡はあり得ないと確信していました。そして、実際にも何も起こりませんでした。

聖書が記す終末の徴
 終末の徴に関する教えは、マルコによる福音書第13章の3節〜37節、マタイによる福音書第24章3節〜44節、ルカによる福音書第21章7節〜36節に記されていますが、それらをまとめてみると9つの徴の後にイエス様が再臨されることが分かります。

まず第1の徴として
 「キリストの生まれ変わりだ」と名乗る偽メシア、偽預言者が大勢登場し、人々を惑わす。
第2の徴として
 各地で民族対民族、国対国の敵対や紛争、戦争が起こる。
第3の徴として
 各地で地震が起こる。
第4の徴として
 各地で飢饉や疫病が起こる。
第5の徴として
 1〜4のことがすべて起こる前にクリスチャンが迫害される。
第6の徴として
 親しい者同士(兄弟姉妹、親子、友人)が裏切り合い、殺し合うことが多発する。
第7の徴として
 福音が全世界のあらゆる民に述べ伝えられる。
第8の徴として
 憎むべき破壊者が聖なる場所(エルサレム)に立つ。
第9の徴として
 以上の8つの徴が現れた後、
 太陽は暗くなり、
 月は光を放たず、
 星は空から落ち、
 天体は揺り動かされる
第10の徴として
 イエス様が稲妻が東から西にひらめき渡るように雲に乗っておいでになる。


 と、いうことになります。つまり、これらすべての徴が現れるまでは終末は来ないということなのです。ただ、イエス様はこれらの徴がどれほどの期間で起こることなのかを語っておられませんから、これらのことが1年以内に起こることなのか、10年にわたって起こることなのかは解りません。しかし、単純に読めば、1〜6の徴がほぼ同時進行的に起こって、7〜9がある程度の間隔を置いて起こり最後にイエス様の再臨を迎えるのであろうと考えることができます。

太陽はいつ暗くなるのか
 それにしても第9の徴の1番目に
「太陽が暗くなり」とありますが、聖書が書かれた時代は地球が宇宙の天体の一つで、太陽の周りを回っているという事実に気付いていない時代です。現代の科学では、太陽の現年齢は46億才であり、およそ100億年まで燃え続けると推定し、残る50億年余りの間に太陽は核融合を繰り返しながら現在の100倍に膨張し赤色巨星になるであろうと考えています。
 もしそうであるならば、遠い将来地球は太陽の引力に引き寄せられ、燃え尽き蒸発してしまうことになります。現代科学を聖書に優先して考えれば、
「太陽が暗くなる」より前に、太陽の膨張によって人類が滅亡するか、他の惑星への移住を余儀なくされるということになります。つまり、「太陽が暗くなる」のではなくて「太陽が今より更に明るく熱くなる」ことによって地球上の生物が滅ぶことになるのです。
 だとすれば聖書の記事と矛盾しますが、神様は宇宙をお造りになられたお方です。ご自身の力で明日、太陽を暗くすることも、星の光を届かなくすることもおできになりますから、神様がそのような特別な業をなさらないと仮定した限りにおいて、
天文学的にはここ100年〜200年(現在地球上で生きている私たちが寿命を終えるまで)の間に太陽が暗くなることは、あり得ないということになります。

科学で知られていることは一部分
 ただし、
人間に与えられた科学知識は、神様の知識に比べれば、ほんの一部分でしかありません。私たちが真実だと思い込んでいる科学知識でも、まだまだ解らないことの方が多いことも事実なのです。
 例えば、進化論にしても、ダーウィンが、隔絶されたガラパゴス島の動植物の特異性を目の当たりにして「種(しゅ)は環境の変化によって進化を遂げてきたに違いない」との説を唱えたのであって、実際には進化を証明する「中間種」の化石は未だ確認されていません。唯一、「始祖鳥」が恐竜から鳥類へと分化した進化の中間種ではないかとされていますが、最近の研究では恐竜はもともと体表に羽毛や羽をたくわえていた巨大な鳥類ではなかったかとの新説も登場しています。また、人間はサルから分化し進化したとされていますが、サルから人間への明確な中間種の化石も未だ発見されてはいません。
 こうしたことから、欧米では80%以上の人が進化論を支持しておらず、アメリカではいくつかの州で、進化論を教科書から削除することを決めたと、数年前のニュースで報じられていたのを思い出します。
 聖書は、6日目に神様がアダムとエバを創造されたと教えていますから、日本で高く支持されている進化論がキリスト教文化圏で指示されなかったとしても、十分頷けます。
 もしも私たち人間が進化の過程でサルから分化した存在だとしたら、私たちはこの世に偶然存在しているに過ぎないということになってしまいますし、進化論を肯定すれば、アダムとエバ、カインとアベルはサルだったということになってしまいます。いったい、私たちはこのような学説をどのように解釈すればよいのでしょうか。

 私たち人類は自分たちを「頭脳恐竜」と呼ぶほどに、科学の発展によって自然界の摂理をある程度解明し、自然の資源を活用し、更には自然を容易に破壊する力までをも手に入れてきました。ところが、原子爆弾を造るきっかけとなった相対性理論も現在では量子理論に席巻されつつありますし、恐竜の絶滅についても、宇宙の誕生についても実にさまざまな学説が飛び交っています。確かに多くの科学分野(医学、生理学、電子工学や物理工学など)において一部実験的に実証されたものが、科学技術に応用されていることも事実ですが、一方でまだまだ科学的に実証されていない事象、いわゆる通説(多くの学者らによって支持されてはいるが、真実であることが証明されてはいないもの)が沢山存在していることも事実なのです。そして、この通説は時代と共に新しい考え方が登場するたび、案外、簡単に変わったりするものです。

情報の嵐の中で
 テレビのチャンネルが100を超え、書店に情報誌があふれ、インターネット上で数千万のホームページが情報を発信するこの情報過多の時代に、私たちにとって大切なことは、溢れる情報の中から真に必要な情報を選び出し、正しく理解し解釈する力を養うことでしょう。しかし、これほど多くの情報の中から不必要な情報を排除し、必要な情報だけを選び出すことも、決して容易なことではありません。
 私たちは情報の嵐に曝(さら)されながら、必死に幹にしがみつく小枝のような存在です。そのような時、私たちは考えます。一番大切なことは何なのだろうと。
幹に繋がる小枝にとって一番大切なこと。それは、言うまでもなく幹に繋がり続けることです。幹に繋がり続けることだけをシンプルに考える時、情報の嵐は殆ど意味をなさなくなっていきます。私たちが日頃享受している情報の大半が、実は私たちが生きていく上で、どうしても得ておかねばならない情報ではないことに気付くのです。

 イエス様は仰いました。
「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」と。私たちにとって一番大切なこと、それはぶどうの木からの情報に耳を澄ませ、正しく解釈することです。先に述べた第1から第6までの終末の徴は、類する事象がいつの時代にも起こっていると気付かれた方があるでしょう。だからこそ、これまでにも世紀末の度に終末論が浮いては消え、浮いては消えしてきたのだろうと思います。

徴の検証・・・?
 では、同じように、一つ一つの徴について考えてみましょう。
第1に、偽メシア、偽予言者の出現。
 まず、1990年代初頭に合同結婚式でセンセーションを巻き起こした世界キリスト教統一神霊協会(世界のプロテスタントおよびカトリック教会から正統なキリスト教会として認められてはいない)の文鮮明(本名:文龍明)を挙げることができるでしょう。彼は、自身を「イエス・キリストの生まれ変わりである」と述べて会員を勧誘し、マインドコントロールしていると伝えられています。
 また、アーレフと改称した旧オウム真理教の教祖、松本智津夫被告も教団の出版物の表紙に自身が十字架に架けられた肖像画を掲載し、あたかもキリストの再臨であるかのように表現したことがありました。
 そして過去の時代にも、紀元600年前後にイスラム教を興したムハンマドをはじめ、多くの偽メシア、偽預言者が沢山登場していますし、カルトと呼ばれる新興宗教は世界中に星の数ほどあります。
(○)

第2に、各地で民族対民族、国対国の敵対や紛争、戦争が起こる。
 2001年9月の同時多発テロ以来続いているアフガニスタンでのアメリカによる報復軍事行動やイラク戦争を見る時に、わたしたちは、まさにこれは第2の徴ではないかと思いたくさえなりますが、それはきっと第1次世界大戦や第2次世界大戦の渦中にあった人々も同じように考えていたであろうと想像できます。
 「人類は有史以来100年として地球上で戦争をしなかった時代はない」と言われますが、それは13章6節でイエス様が
「そういうことは起こるに決まっている」と言われた通りです。しかし、イエス様はこのような事態が起こっても「まだ世の終わりではない」と仰いました。私たち人類は世の終わりまで平和を維持することの難しい者として、争いを繰り返し続けるのかもしれません。(○)

第3に、各地で地震が起こる。
 1995年に阪神淡路大震災。99年には台湾やトルコでも大きな地震が起こりました。まさに各地で大地震が起こっています。当時これを第3の徴と考えた人があったかもしれません。日本では昨年から東北、北海道を中心に大きな地震が続いています。韓国でも地震がありましたし、2004年の始めにイランでも大地震が起こったばかりです。これらは果たして第3の徴なのでしょうか。
(△)

第4に、各地で飢饉や疫病が起こる。
 2003年の日本は冷夏で平成5年以来10年ぶりの凶作の年になりましたが、政府の備蓄米が十分にあり、飢饉と呼ぶほどの状態にはなりませんでした。しかし、第三世界では慢性的な飢饉が続いています。
 疫病に関しては1995年に猛威を振るったエボラ出血熱やAIDS、そして2003年に世界で大流行した新型肺炎SARS等が、第4の徴ではないとは断言できません。
(○)

第5に、1〜4のことがすべて起こる前に、クリスチャンが迫害される。
 現在、アフリカやインドネシアで日曜日の教会がイスラム教過激派によって襲撃される事件が度々起こっていますが、世界的な迫害かと問われると判断が難しいです。しかし、同時多発テロ以来、クリスチャンへの迫害勢力が、水面下でその力を増しつつあることの懸念を拭うことはできません。
(△)

第6に、親しい者同士(兄弟姉妹、親子、友人)が裏切り合い、殺し合う。
 2003年には16歳の新妻が夫とその友人らに暴行されたあげく殺害され、ライターのオイルで焼かれるという事件がありました。平成元年当時から比べると犯罪総数もこの15年でほぼ倍増し、重犯罪に関しては50%の検挙率を辛うじて保っているものの、軽犯罪を含めた犯罪総検挙率は先進国では最低の21%となるなど、治安の悪化が叫ばれています。中でも犯罪の低年齢化が進み総検挙人員の約40%が少年で占められる事態となっていて、親族殺しなどの、ごく親しい者同士が被害者と加害者になっている事件も増加の一途を辿るばかりです。我が国の状況だけを考えてもそうですが、既に第6の徴は世界中で確認できるように思えます。
(○)

第7に、福音が全世界のあらゆる民に述べ伝えられる。
 現在全世界の人口62億人といわれる中で、クリスチャンの人口は20億人ともいわれ、全人口のほぼ1/3にあたります。現時点でもキリスト教は世界最大の宗教であることに違いないのですが、イエス様の言われた
「全世界のあらゆる民に」述べ伝えられているかといえば、「No」という他はありません。信じるか信じないかはそれぞれ個々人に与えられた自由ですが、述べ伝えられれば信じたかもしれない人が、述べ伝えられなかったが為に信じられなかったのだとしたら、それは不平等と言うしかありません。その意味では、まだまだ宣教に赴かねばならない国と地域は存在しています。特に、今日わたしたち日本人が最も心にかけるべきは、隣国、北朝鮮の人々への福音宣教ではないかと、私にはそう思えてなりません。(△)

第8に、憎むべき破壊者が聖なる場所(エルサレム)に立つ。
 イスラエルは歴史的にもともとユダヤ民族の土地でありながら、ユダヤ人は世界に散らされていきました。やがて第2次大戦後の1949年に世界に散らされていたユダヤ人が呼び集められ、国連主導でイスラエルが再建された訳ですが、ユダヤ人が散らされていた間にイスラエルに住み着いていたパレスチナ人らとの間に紛争が起こり、その後幾度となく中東戦争が繰り返されて来ました。今もイスラエルでは紛争が絶えることはありません。
 現在、エルサレムの神殿の上にイスラム教のモスクが建っています。これを憎むべき破壊者と解釈すれば既にその徴が現されていることになりますが、イエス様が語られた
「聖なる場所に立つことが決して許されない憎むべき破壊者」とは、いったい誰のことなのでしょう。最近の人物で言えばそれはアラファト議長なのでしょうか、オサマ・ビン・ラディンなのでしょうか、サダム・フセインなのでしょうか、それとも別の人、あるいは人間ではない何かなのでしょうか。今の私たちには判りません。(?)

 そして、
第9の徴と第10の徴は、第1〜第8の徴がすべてそろっていると思われない今、その徴(天体が揺り動かされ、イエス様が再臨される)がすぐにも現されるとは考えがたいと言えます。(9=×、10=×)

徴を確かめる前に
 イエス様はこのように終末の徴を具体的に示してくださいましたが、それより前に、まず
「人に惑わされないように、気をつけなさい」と言われました。
 ここで注意しなければなりません。イエス様が、何に気をつけなさいと仰ったかということです。イエス様は、これら9つの徴にについて、
それがいつ起こるのか注意していなさいと仰ってはいないということです。


 今私は、私自身の解釈として終末の徴に
○、△、×、を付けました。○が4つ。△が3つ。?が1つ。×が2つです。しかし、これはあくまで私の解釈でしかありません。私自身にも私の解釈が絶対に正しいとは言い切れませんし、もしかすると、私だって誰かを惑わすのかもしれないのです。例えば、私以外の人がこれら一つ一つの徴に○、△、×を付けたとしたら、もしかすると全部に○を付ける人がいるかもしれませんし、逆に全部に×を付ける人だっているかもしれません。このように、どう解釈することが正しいとは誰にも言えないのです。何故ならその解答を導き出せるお方は、主をおいて他にはいないからです。

 また、新興宗教の中には、ことさらに終末論を唱え「今、入信しないと、あなたは必ず死後、煉獄の炎に焼かれ、その苦しみは終わることがない」と、恐怖心を煽(あお)って入信を迫る類いのものが多く存在します。この他にも、「来世も人間に生まれ変わり、幸せな人生が送りたいなら」とか「先祖代々続いてきた呪いの連鎖を断ち切りたいなら」とか「病気を治し、長生きをしたいなら」とか「ポックリ死にたいなら」など、勧誘の口上は実にさまざまです。それらの殆どが、恐怖を煽るか御利益を強調するかの二つに分けることができます。イエス様はこうしたことに
「惑わされないように、気をつけなさい」と言っておられるのです。

キリスト者(クリスチャン)の姿
 どんなにさまざまな思惑や学説が飛び交おうとも、
真実は一つ、真理は一つでしかありません。情報の嵐の中で風が強く吹けば吹くほど、不必要な情報をやり過ごして、幹のことだけを思い、幹からの情報だけに耳を澄ますことが肝心です。そうすればどんなに周りが騒がしくても、次第に風の音は気にならなくなっていきます。やがて心に静寂と平安がおとずれることでしょう。

 ルターは、
「たとえ明日世界が滅びようとも、明日林檎の木を植えよう。」と言いました。キリストを信仰するとは、こういうことです。つまり、ルターは「たとえ明日が終末のその日であったとしても、心を騒がせないで普段と変わらない日常を過ごそう」と語ったのです。

 
クリスチャンの生き方とは、終末の到来におびえ、地獄の不安にビクビクして生きることではありません。地獄の罰を恐れて、ひどい目に遭わないためにキリストを信仰することではないのです。イエス様の十字架のあがないによって、私の罪が既に神の前に赦され、永遠の命が約束されいることを信じて感謝の中に生きる姿、それこそがクリスチャンの姿です。そのことをルターは「林檎の植樹」に表現したのでした。

 仮に終末の徴が明日から始まったとしても、9つの徴をすべて見届けてイエス様の再臨まで生き抜くことが大切なのではありません。たとえ5つ目の徴で命を召されることがあったとしても、永遠の命の確信の故に平安のうちに死を迎えられることが大切なのです。

 私たちは、日々、死に向かって生きています。あなたは恐れながら生きる人生と、平安の中で生きる人生とでは、どちらが良いと思われるでしょうか。
 イエス様の仰った
「惑わされないように、気をつけなさい」という言葉には「恐れてはならない。どのような時であっても、神様に信頼して平安のうちに過ごしなさい」との意味が含まれているのです。キリスト者の魂は、既に神様の御(み)手のうちにあります。