「三位一体の神」

ヨハネによる福音書16:12−15
12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
イザヤ書6:1−8
1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
ローマの信徒への手紙8:1−13
1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

YACCOのメッセージ

心の穴を満たすもの
父なる神、御子なる神、聖霊なる神

●三位一体主日
聖霊降臨日=ペンテコステは、キリスト教三大祭りの一つ。

祭りの一つ目は言わずと知れたクリスマス。
二つ目は最も古くから祝われてきたイースター。
そして三つ目がペンテコステです。

 クリスマスは御子なる神が肉体を持ってイエスという名で私達の世界に降りてきてくださった事をお祝いする日ですし、イースターはイエスが肉体の死を以て私達人類の過去・現在・未来に渡るすべての罪を贖い、キリスト(つまり、救い主)としての業を完成されたことをお祝いする日です。そして先週日曜日のペンテコステは復活のイエス・キリストが40日に渡って弟子たちを導き、天に昇って行かれた後の、五旬節の日に助け主・弁護者なる神が、イエス・キリストを救い主と信じる民に、聖霊となって臨んでくださった出来事をお祝いする日で、別名「教会の誕生日」とも言われています。

 そして、教会暦におけるペンテコステの翌週が「三位一体主日」として、神様が三つの神格を持ちながら一体であることを覚える日です。

 「三位一体」というと、近年の小泉内閣による「三位一体改革」が耳に新しいところですが、小泉さんが唱えた「三位」は1に国庫補助負担金の廃止と縮減、2に税財源の移譲、3に地方交付税の見直しということで、「一体」とは、これらのことを一体化して一度にやってしまおうというものでした。それは、2002年に骨太の方針として「地方に出来る事は地方に、民間に出来る事は民間に」という小さな政府論を具現化する政策として推進されたものでした。
 「三位一体」というキリスト教用語が一般に広く知れ渡ったことについては、どこかしら嬉しいような気がしなくもありませんでしたが、内容的にその質が大きく違っている点で誤解を生じ易く、こういう使い方で「三位一体」を用いないでほしかった…というのが正直なところです。

●キリスト教独自の立場
 では、もともとの「三位一体=Trinity(英)Trinitas(ラテン)」が意味するところとは何か?これは、キリスト教独自の真理であると言うことができます。

 ご存知のように、キリスト教はユダヤ教から派生した宗教です。しかしながら、ユダヤ教とキリスト教が相容れないいちばんの理由は、ユダヤ教がイエスを聖書に予言された「救い主=キリスト」と認めていない点です。
 ユダヤ教はわたし達キリスト教信者が「旧約聖書=旧い神との約束(契約)を記した聖書」と呼んでいるものを唯一の聖典として、未だにキリスト(救い主)の降誕を待ち望んでいます。故に、私たちが「新約聖書=新しい神との約束(契約)を記した聖書」と呼んで聖典としているものをユダヤ教は認めていません。歴史上に登場する人間イエスの存在は認めても、イエスが神の子として地上に降り立ち、人類の罪を贖う犠牲の子羊として屠られたことは認めていないのです。

 ユダヤ教以外に、イスラム教の教祖ムハンマド(マホメット)も、イエスはモーセやエリヤと並んで神に信託を受けた預言者(つまり、人間である)という立場をとっていますし、キリスト教を名乗る新興宗教の中にもイエス・キリストの人格は認めても神格・神性を認めていない宗教が存在しています。その理由の一つに、聖書の中にどこにも「三位一体」という文言が記されていないことが挙げられます。
 しかし、真にキリスト教と呼ばれる教会が全く根拠無く「三位一体」を唱えているのかと言えば、そうではありません。何故ならその根拠は、旧・新約聖書の中に数多く記されているからです。

●三位一体の証明
 「一人なのに三人?」「三人なのに一人?」というのは、物理的に体を持っていることをベースに考えてしまうわたし達人間には難解ではありますが、神様は体を持たない霊として存在しておられることを忘れてはなりません。
 神様が複数の神格を表しておられる聖書記事を、ご一緒に紐解いてみましょう。

 そのことが最初に登場するのは、旧約聖書のはじめ、創世記第1章の26節
神は言われた。「我々に象(かたど)り、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてを支配させよう。」

続いて、創世記第3章22節
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。…」

さらに、創世記第11章6〜7節バベルの記述
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

また、創世記第18章で神様はアブラハムの前に三人の姿でご自身を現されています。

本日の日課、イザヤが預言者としての召命を受ける場面でセラフィムが聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と頌栄を「聖なる、聖なる、聖なる」と三唱したことの中にも、三位格(ペルソナ)が表現されていると理解することができます。

 そして、新約聖書の記述中で三位格が登場する場面は、マリアがキリストの受胎を天使に告知される場面、(ルカによる福音書第1章35節)
聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」

に始まり、
 主イエスご自身の受洗
(マタイによる福音書第3章17節)
イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのを御覧になった。そのとき、「これはわたし愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 弟子フィリポが主イエスに父なる神を示してくださいと願い出たのに対し
(ヨハネによる福音書第14章9〜17節)
「…わたしを見た者は、を見たのだ。…わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。…わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」

 そして、
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を使わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」
(同章26節)
「しかし、弁護者、すなわち、わたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」


復活後の主イエスが
(マタイによる福音書第28章19節)
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに聖霊の名によってバプテスマをさずけ…」


また、主イエスの神性については使徒パウロが残した書簡に
(ローマの信徒への手紙第9章5節)
「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる。」

(コロサイの信徒への手紙第1章15〜16節)
「御子(みこ=キリスト)は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座の主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。」

(ヘブライの信徒への手紙第1章3節)
「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」

 キリがないのでこの辺りでやめておきますが、この他にもペトロの残した書簡などにも三位が一体である根拠となる記述が聖書には沢山記されているのです。

●正統的信仰の表明
 これらのまとめとして、紀元325年にニカイヤ総会議の中で「ニカイヤ(ニケヤ)信条」が、当時アリウス主義と呼ばれたキリストの神性を否定する異端に対して、正統的信仰を表明するために作成されました。
     ニカイア(ニケア)信条

我は唯一の神、全能の父、天と地と、すべて見ゆるものと、見えざるものの造り主を信ず。

 我は唯一の主イエス・キリストを信ず。主はよろず世のさきに父より生まれたる神のひとり子、神よりの神、光よりの光、まことの父よりのまことの神、造られずして生まれ、父と同質にして、すべてのものは主によりて造られたり。主は我ら人類のため、また我らの救いのために天より下り、聖霊によりておとめマリヤより肉体を受けて人となり、我らのためにポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、苦しみを受けて葬られ、聖書に従い三日目によみがえり、天に上り、父の右に座したまえり。また生ける人と死にたる人とをさばくために、栄光をもって再び来たりたまわん。そのみ国は終わることなし。

 我は主にして命の与え主なる聖霊を信ず。聖霊は父と子とよりいで、父と子とともにおがみあがめられ、預言者によりて語りたまいし主なり。われは唯一の聖なる使徒たちより伝わりしキリスト教会を信ず。我は罪の赦しのための唯一の洗礼を信認す。死者のよみがえりと来世の命を待ち望む。 アーメン

 先述したように聖書に「三位一体」という文言は登場しません。しかし、旧約聖書の伝承から、或いは新約聖書の主イエスご自身の、み言(ことば)から、また主イエスによって直接語りかけられた弟子たちの記述から、主なる神の性質を推し量るときに「三位一体」であることは明白なのです。

 わたし達クリスチャンは、天地創造の時代から現在に至るまで、神様が一貫して三位一体であられることを証しする者です。それ故、自分たちの信仰の基本姿勢として、毎日曜日の礼拝において「使徒信条」を唱和し、自分たちの依って立つところを主に告白すると共に、自分たちでもお互いにお互いの信仰を確認している訳です。それによって自分たちがキリストの体として連なる神の家族であることをも知るのです。

●心の穴を埋めるもの
 ところで、以前一つの譬えとして私達の心には生まれながらにしてポッカリと穴が空いているという話を聞いたことがありました。これはあくまでも譬えですから、イメージの域を出ないものですが、一つの考え方としては「なるほどなぁ…」と思わされる話しでした。
 その穴は、天地創造の時代にエバが蛇にそそのかされて知識の木の実を食べ、アダムがエバの勧めで同じ木の実を食べた時に空いた原罪による穴だというのです。つまり、この穴は、わたし達人間が罪に染まりやすい性質を生まれながらに持っていることを象徴しているのです。
 そして興味深いのは、その穴はキリストの形をしているのだと言います。ですから、この穴にキリスト以外の何を詰めようとしてもピッタリとは埋まらず、いつまでも空虚感が満たされることはないのだそうです。
 この生まれながらに空いている心の穴に、わたし達はいったい何を詰め込もうとするのでしょう。

 ある者は、満たされない空虚感にイライラを募らせて、闇雲に藻掻き悶え、すべてを他人のせいにして他罰的に誰かを攻撃することにはしるのかもしれません。その攻撃対象は年老いた親であったり、配偶者であったり、子どもであったり、部下であったり、友人や知人など、往々にして自分より立場の弱い者に身体的な暴力だけでなく言葉による暴力としても向けられます。相手の服従に支配を手にしたと錯覚し、一時的に心の穴を満たします。
 また、ある者は、空虚感の原因をすべて自分のせいにして自らを責め、自虐行為にはしるかもしれません。その自虐性は観念的なものから、実際に刃物で自分の体を傷付けたり、睡眠薬やその他の薬品を多量に摂取するなど、敢えて自分の身を危険に晒そうとしたりします。それでも、痛みや苦しみの中に自身が生きているという実感を得て、そのことで心の穴を満たそうとするのです。
 更に、ある者は、やってもやっても報われない現実と、満たされない空虚感から逃れようとするあまり、嗜好にはしり、さまざまな依存症的症状を呈するかもしれません。アルコールや麻薬、ギャンブルや異常な性癖などです。
 以上述べてきた「他者への攻撃」「自虐行為」「嗜好依存」はすべて、悪しきものを心の穴に詰め込み、イライラを解消しようとする試みと言えるのかもしれません。

 悪しきものを詰め込む以外にも、なんらかの群に属することで、心の穴を満たそうと試みる者があります。それはカルチャークラブや町内会や老人会であったり、時には職場集団、或いは他の宗教を信心し居場所を求めることで、この穴を満たそうとします。
 ところが、それらの多くはたいていの場合、働きとしてやり甲斐を得ていればそれなりに満たされもしますが、完全に心の穴を埋めるものではありません。やり甲斐を越えてそこに生き甲斐や自身の存在意義までをも求めようとすれば、やがて最初は安住できていたと思えた場所が、次第に辛い場所になっていったりもします。そのうち、ふと、心の穴がポッカリと空いていたままだったことに気付かされるのです。

●心の神殿に聖霊を迎える
 いくら形の違うものを埋めても、或いは似たような形のものを埋めてみたとしても、そしてどんなに沢山詰め込んでみても、どこかしら隙間が空いていて、風が通り抜け、一向に空虚感は無くならないということなのでしょう。
 この穴を満たすことができるもの、それが主イエスが約束された真理の霊、すなわち第三位の神「聖霊」です。わたし達が魂に聖霊を迎え入れるとき、わたし達は主イエスを内なる宮に宿すことになるのです。
 使徒パウロはコリントの信徒への手紙1第3章16節の中で次のように述べています。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」

 今お話しした譬え話をもとに讃美歌として書き上げたのが、David’sHarpの「心の穴」です。

 ところで、先ほど聖霊様について便宜上、第三位と言いましたが、決して父なる神、御子なる神、聖霊なる神に上下の序列があるわけではないので誤解しないでいただきたいと思います。この「三位格(ペルソナ)」はその名や働きに違いはあっても同質です。同質であればこそ、「一体」と呼ばれているのです。


「心の穴」
作詞・作曲 YACCO
David's Harp

(1)
何処かに何か一つ大切なものを
ポトリ落としてきたみたい
いったい何処で何を落としたものやら
思い出せない分からない

考えてみても苦しんでみても
心にポッカリ空いた穴を埋められない
穴の大きさを測って調べても
一体全体形も重さもまるで分からない

いっそこうなりゃ其処ら街の界隈を
探し回って歩こうか
歩き疲れてたどり着いたその先の
屋根の上には十字架が・・・

(2)
やっと見つけたとても大切なものを
なくしかけてたMy life energy.
いったい何処でそれを落としたものやら
思い出せない分からない

生まれ来た意味と生きる目的が
心にポッカリ空いた穴を埋めていく
誘惑の声に惑い溺れてた
七転八倒絶体絶命けれど九死に一生

十字架の愛に今は感謝に溢れて
抑えきれないこの心
あなたにも伝えたい神のメッセージ
心の穴を満たすもの


 鳥取教会の会堂を1995年に新築した際に、そのすべてのデザインを私が担当、設計したのですが、聖餐台に、あるキリスト教シンボルの彫刻を施しました。

 どんな形のものだと思われますか?




 それは、一つの大きな△と、三つの○を組み合わせたものです。

 △は「父なる神」「御子なる神」「聖霊なる神」の三位一体を表現し、三つの○は「信仰」「希望」「愛」を表現していて神様とわたし達人類との関係性を指し示しています。

 十字架をはじめ、教会はこのようにあらゆる部分で主を証ししているんです。教会の中に隠されている証しを探してみると面白いかもしれません。