「確信に裏打ちされた信仰

マルコによる福音書7:24−30
7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
イザヤ書35:1−3
35:1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。 2 花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。 3 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。
ヤコブの手紙1:2−18
1:2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。 3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。 4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。 5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。 6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。 8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。 9 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。 10 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。 11 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。 12 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。 13 誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。 14 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。15 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。 16 わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。 17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。 18 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

YACCOのメッセージ
「造られた者の初穂として」

−主イエスのユダヤ教改革とルターの宗教改革−

●ノルウェーのキリスト教史
 昨年10月、NLMの招待を受けてノルウェー全土50会場で開催される「日本宣教キャンペーン」に伊木牧師と妻の幸子の3人で赴きました。

 ノルウェーは今から1006年前の西暦1003年にキリスト教に改宗した国で、それまではバイキングの国としてヨーロッパ中から恐れられていたと聞きました。
 時の王、オラフがキリスト教・カトリックへの改宗を決めてからノルウェーは剣を捨て、徐々に敬虔なクリスチャンの国へと変貌していったようです。

 500年ほどの時が流れ、西暦1517年にドイツでマルティン・ルターによる宗教改革が起こり、その波はスイスのフルドリッヒ・ツヴィングリ、フランスのジャン・カルヴァンと、ヨーロッパ各地へ広がっていきました。
 この波はイギリスにも多大な影響を与えましたが、それによって誕生した英国国教会は教皇(法王)を英国国王とする謂わばイギリス・カトリックであって、今日わたしたちがプロテスタントと呼ぶものとはやや質を異にするものと言えます。日本では聖公会の名で知られていますが、事実、聖公会の中には、聖公会をプロテスタントに分類する事を避け、カトリックとプロテスタントの中間としての立場を強調する見解も根強く存在しているほどです。
 そしてノルウェーはと言うと、20年後の1537年にすべてのカトリック国教会がルター派の国教会、すなわちルーテル教会へと改宗されました。
(ルーテルとは宗教改革者ルターのドイツ語読みです)

●宗教改革の足音
 さて、ドイツに始まったとされる宗教改革ですが、実はその初穂は、ルターより100年以上も前にドイツ以外の国で既に現れていました。

 それがどこかというと、当時のポーランド王国(現在のチェコ)。プラハ大学学長で教授だったヨハン・フスがローマカトリック教会の悪弊に反対した門で、1414年に教皇(法王)によってコンスタンツの公会議に召喚されるということがありました。会議は意見を曲げようとしないフスを異端として火あぶりの刑に処しますが、フスに同調する多くの信徒らが義勇軍を組織しフスの遺志は1419年にフス戦争という形で結実します。このフス戦争はヨーロッパにおいての初めての本格的な銃器を使った戦争として歴史にその名をとどめられていますが、神聖ローマ帝国がポーランドに送り込む十字軍をフス派が銃器によってことごとく撃破したと伝えられています。1431年の神聖ローマ帝国による対フス派十字軍遠征では、フス派が対陣中で一斉に聖歌を歌い出したのを聴いただけで突撃を恐れた十字軍が壊走したというエピソードが遺されているほどです。
 結局この戦争は1434年にフス派の間に内部抗争が起こり、1439年にポーランド国王が代替わりしたことで終わりを告げています。

●ルターによる宗教改革の意味と目的
 さて、ルターが95箇条の提題をヴィッテンベルグ城教会の扉に貼り付ける丁度1年前、1516年10月31日の自身の説教の中で、ルターは1506年にローマのピョートル大聖堂の建造開始に伴って資金を得るために始まった贖宥券(免罪符)の販売についての批判を述べ、翌1517年2月の説教でもローマカトリックに対して同様の批判を繰り返したという記録が残されています。ヴィッテンベルグ大学の副学長であったルターですから、およそ100年前にポーランドのヨハン・フスとフス派がどのような顛末を迎えたかについて、彼は知り得ていたであろうとは想像できますが、きっとルター自身も提題を貼り付ける時にはフス同様に命がけであったに違いありません。

 後にルター派を初めとする改革諸派はプロテスタント(=抵抗者)と呼ばれることになりますが、ルターは決して自身がカトリックから分裂することを望んでいたのではありませんでした。そうではなく、むしろカトリックが過ちを認め「恵みのみ」「信仰のみ」「聖書のみ」に立ち返ることを望んでいたのだと言えます。しかし、当時のカトリックは誤りを正すことなく、結果、1521年1月3日に正式にルターを破門してしまうことになります。

●キリスト・イエスのユダヤ教改革の意味と目的
今日のテキストはメッセージ・タイトルに記したように「造られた者の初穂として」が主題ですが、聖書に記されている通り、神がご自身の存在を知らしめる初穂として最初に選ばれたのがユダヤ民族だったと言うことができます。
 勿論、言うまでもなく人類の初穂はアダムとエヴァですが、その伝承を代々連綿と受け継いできたのがユダヤ民族でありヘブライ人達でした。

 ユダヤ民族がユダヤ教の教えの中で神の存在を伝承する中で、人々は次々と神様の意に反する規則を設けていきました。先週のテキストであるマルコによる福音書7章1〜15節にその一部が記されていますので、ここで少しおさらいをしておきたいと思います。

7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。

 2節に記されている「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者…」とは、現代の私たちが考える衛生観念とは違って、宗教的精神性の問題としてテーブルに着いてから水を湛えたボールで手を清める儀礼があったことを意味しています。丁度、日本の神社仏閣にお清めの手洗い場が設けてあるのに似ています。
 この他にも4節以降に記されている「市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」のように、当時のユダヤ教は汚れに触れるたびに身を清めるための沐浴をしたり、石造りの寝台を水を流して洗うなど実に多くの決まり事を設けて強迫的にその精神性を受け継いでいたことを知ることができます。
 こうした決まり事はおよそ現代のユダヤ教においても受け継がれていると思われますが、時代を経るに従って旧約聖書には記されていない決まり事も次々に加えられてきました。
 イエス様はファリサイ派を代表とするユダヤ教の指導者が真の精神性を見失い、信仰の先輩である先祖が定めた規則、つまり神様ではなく人が作った決まりを頑なに守ろうとするその間違った精神性に対して、次のように異を唱えられたのです。

6「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、 12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

 マルコによる福音書2章27節においてイエス様が語られた
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」
は、そのまま「律法は、人のために定められた。人が律法のためにあるのではない。」と読み替えることができるのですが、当時のユダヤ教指導者たちはその真意を受け入れることができなかったのです。

 ここで注意したいのは、彼らが決して理解できない訳ではなかったということです。彼らは理解はできても受け入れることができなかったのです。本当は、多くの人々が気付いていたのだと思います。しかし、気付いていながらにして改めることができなかった。特に、それを信条として指導的立場にある者たちは、様々なしがらみに縛られて古(いにしえ)から守られてきたしきたりを改めることができなかったのだと思われます。疑義を感じていたとしてもそれを口にすることすら許されてはいなかったことでしょう。

●改革のうねりに共通するもの
 先週、衆議院総選挙が行われ、それまで290を超える議席を有していた自民党が170以上の議席を失い大敗しました。
 対照的に選挙に大勝した民主党が我が国の政治の救世主となり得るかどうかは今後の政権運営にかかっていますが、民主党が我が国における二大政党政治の幕開けを告げる初穂となったことは否めない事実です。

 今回の選挙は、戦後、半世紀を超える党運営の中で、自民党が派閥政治を繰り広げながら多くのしがらみとしきたりで自らを縛り、いつしか国民を置き去りにした国政を担ってきたことに対する国民の怒りが、全国的な投票行動となって現れた選挙であったと言うことができるように思います。今回の選挙に関する国民の代表的な自民党政治に対する疑念が昨年来からの「年金問題」であり、小泉構造改革時代以来の「格差社会」と「雇用不安」「子育て不安」ではなかったかと思われます。

 「日本列島改造論」を掲げた田中角栄元首相の時代に、にわかに誕生した派閥政治がようやく終わりを告げようとしています。
 これまでの間、何度か自民党内でも派閥政治を解体しようとする動きはありましたが、いつの間にかそうした声は揉み消され、自民党は自らの力では自らを改革するチャンスをことごとく逸してきたように思います。そして今回、結局、外からの力によってようやく変わることを余儀なくされたのだと言えます。

 是非ともこれから新しく誕生する民主党政権が自民党の二の轍を踏むことのないように願いたいものですが、今回の衆議院選挙からも知れるように、つくづく人間というのは時代が変わっても場所が変わっても、イエス様が生きておられた時代のイスラエルと本質は何ら変わらないのだなぁと思わされます。

 キリストの時代のユダヤ教がそうであったように、ルターの時代のローマカトリック教会もまたそうでした。古い体質を引きずりながら自らの力で自らを正せなかった組織が、宗教改革のうねりを受けて、カトリックの分裂を受け入れざるを得なくなっていったのです。
 ルターが声を上げた当初、カトリック教会はポーランドのヨハン・フスと同じようにルターを弾圧しようと試みますが、フスの時代とは全く勝手が違っていました。
 それは、宗教改革の波が1国だけの現象にとどまることなく、瞬く間にヨーロッパ中を駆け巡ったということでした。今のようにインターネットや発達したマスメディアの無かった時代にそうしたうねりが大きな運動に発展した背景には、免罪符の販売やカトリック教会による恐怖政治に疑念と不満を抱きルターに同調する人々が大勢台頭したということがあったということです。比較にはなりませんが、先週の衆議院選挙と同様に民衆の怒りがピークに達していたということなのかもしれません。

●原則を超える愛による特例
 先にもお話ししたように、神様はユダヤ民族を人類の初穂として選ばれ、天地創造からの歴史を通じて神の意志を全人類に述べ伝えるための召しを与えられました。しかし、その召しを与えられたユダヤ民族とユダヤ教の指導者達が、長年の間に作り上げたしがらみとしきたりとによって、神様の意に反する間違った精神性を民に強制するに至ってしまっていました。このような時代に神様は、愛による真の精神性を取り戻させようと預言された御子イエスを世に送り、律法を正しく解釈し直すことによってユダヤが内なる力で自らを正すチャンスをお与えになったのです。

 今日のマルコによる福音書のテキストは、その時期がまだユダヤ民族並びにユダヤ教自身が自らを悔い改める時期であったことを、イエス様ご自身が語られた部分です。
それが27節に記された

  「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」

 ここに登場する「子供たち」がユダヤ民族とユダヤ教を譬えた表現で、「小犬」がそれ以外の異邦人を譬えた言い方になっています。
 私たちはここでイエス様が冒頭に「まず、」と切り出されていることに注目したいと思います。

「まず、」に続く表現は決まって「次に、」です。つまり、「次に」は小犬にパンを与える時代が到来することをも同時に述べてもおられるということです。

 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つギリシア人の女性はイエス様の「まず、」という言葉を聞き漏らしませんでした。まるで禅問答のようですが、頭の良いこの女性はイエス様に対して

「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」

 と切り返しています。
 きっとイエス様はこの女性の頭の回転の良さに感服されたのだろうと思われますが、それ以上に、それほどまでに疑わず信じている女性の信仰に対して

「それほど言うなら、…」

 と願いを聞き入れられたのでした。
 この女性は、キリストの時代にあってユダヤ人以外に救いを得た異邦人の初穂となりました。彼女のギリシャ人家族の中で、フェニキア生まれの者達の中で、シリア人の間で、彼女はキリストの初穂となったのです。

●歴史の中で連綿と続く初穂のリレー
 60年以上前にNLM(ノルウェー・ルーテル伝道会)に神様から与えられた初穂は、中国宣教への召命でした。その後中国での外国人滞在が認められなくなり行き場を無くした宣教師達に次に与えられた宣教地が私たちの住まう日本です。西明石教会が西日本福音ルーテル教会の初穂となり、鳥取では私の父、山下弘実が初穂として第1号受洗者となりました。

 人類創造の時から、神様はその時代その場所にあって必要な初穂を私たちに与えて来て下さいました。
 しかし、私たちは与えられているだけではありません。
私たちもまた、私たちの家族の中で、地域の中で、職場の中で誰かのために初穂として主の召しを受けて生かされているということを忘れてはならないのです。