敵を愛しなさい

マタイによる福音書 5章38〜48
◆復讐してはならない◆
5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
◆敵を愛しなさい◆
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 5:46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 5:47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 5:48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

YACCOのメッセージ

憎むこと、愛すること
「目には目を歯には歯を」その誤った解釈

・律法の解釈を正す
 イエス様は山上の説教のなかで旧約聖書の律法を引用しながら、「しかし」と述べられます。この「しかし」という言葉は、旧約聖書に記された律法の間違いを正すために「しかし」と述べられているのではありません。当時のユダヤ教祭司や民衆の律法解釈に対してその間違いを正すために「しかし」と述べられていることに注目しなければなりません。つまり、イエス様によって律法が新しく作り変えられたのでも訂正されたのでもなく、正しい解釈へ導かれたといえます。
 例えば、『目には目を、歯には歯を』という言葉は、被害者が加害者に対して仕返しをしようとする際に、「目を潰されれば相手の目を、歯を折られれば相手の歯を折る復讐をすべきである」かのようにマスコミ等に引用され、報じられることが多いのですが、よくよく聖書を読んでみるとこの言葉が復讐のあり方を規定している言葉ではなく、賠償のあり方を規定している言葉であることを知ることができます。つまり、相手を傷つけてしまった加害者が被害者に対してお詫びをしようとする時に、与えた損害に対してどのように賠償すべきかを規定する言葉として記されているのです。<旧約聖書:出エジプト記21章24〜25節参照>

 つまり、「あなたが、もしもあなたの隣人の目を傷つけた場合には自分の目に傷をつけ、相手の歯を折ってしまった場合には自分の歯を折って償うべきである」ことを規定しているのであって、決して傷つけられた者が同じように相手を傷つけても良いと記されている訳ではないのです。イエス様はこうした解釈の間違いを正すために「しかし」と、教えられました。
 そして更に被害を被った者に対しては、「・・・右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」との言葉を通して「報復してはならない。報復は神に委(ゆだ)ねるべきである。」「人に人を裁く権利はなく、その権利を有するのは神だけである」ことを教えておられるのです。

・敵を憎む
 「憎む」とは、正に感情です。私たちが誰かに「敵意」を感ずるとき、それは自分や自分の周辺に対して何らかの関わりを持ってくる者、或いは持とうとする者に向けられる感情です。私たちは見ず知らずの何ら関わりを持たない相手にいきなり「憎しみ」を抱くことはありません。「憎しみ」を抱く相手とは、ある程度自分や自分が近しく感じている誰かにそう遠くない距離にいる者と言うことができるでしょう。
 自分から見て近い距離に存在する者、その多くは「愛すべき者」です。そして、私たちは「愛すべき者」の命を奪ったり、心身を傷つけたりする者を「敵」として意識し、「憎しみ」を抱きます。いずれにしても、私たちは自分や、自分の周辺に対して何らかの関わりを持つ者の中に、「敵意」を抱くのです。敵意を抱く対象とは、自分や愛する者にとって決して遠い存在ではなく、むしろ近しい存在に対して抱く感情であるといえましょう。心の距離が近ければ近いほど、その「憎しみ」はより強いものとして意識されるのではないでしょうか。

 昔から日本でも「かわいさ余って憎さ百倍」と言う諺(ことわざ)があるように、私たちは実は自分にとって近しい者、つまりは、愛する者が反旗を翻した時ほど強い「憎しみ」を抱きます。「愛憎」という言葉があるように、「愛する」ということと「憎む」ということとは表と裏の関係にあって、愛する者をこそ、実は最も憎むことができるのかもしれません。
 この「憎しみ」は、私たち個人の周りにだけある問題ではありません。社会の中にも憎しみは沢山存在しています。国対国、地域対地域、人種対人種、イデオロギー対イデオロギー、価値基準対価値基準、そして宗教対宗教にまで及びます。

・アメリカ同時多発テロ
 2001年の9月11日に起こったアメリカの同時多発テロも、今ではニュースで報じられることは殆ど無くなってしまいましたが、アフガニスタンに対するアメリカの軍事報復作戦は、始まった当初「イスラム教対キリスト教の戦争」であると評論されたりもしました。「憎しみ」が、実は近しい者に向けられるのだとすれば、イスラム教とキリスト教の間には、いったいどんな近しい関係があるのでしょう。

・イスラム教とキリスト教の近しい関係
 イスラム教のイスラムとは、アラビア語で「平和・服従」を意味する言葉ですが、紀元後571年にアラビアのメッカに生まれた教祖ムハンマド(マホメット)によって始められた教えです。40歳になろうとする610年頃から、神アッラーの神託を授かったと唯一神教を厳しく唱え、預言者としての使命を主張してメッカの市民から反対にあい、12年後にはメディナの地に追われています。メディナに移ってからの彼は政治的実権を得て精力的に武力による布教を展開し、その10年後に病死しています。
 享年61歳。当時の平均寿命を考えると、長生きをした方だといえるかもしれません。

・アッラーとヤーウェ
 それはさておき、ムハンマドが神託を得たとされるアッラーの神とはいったいどのような神なのでしょう。実は、私たちが祈りのなかで呼びかける「神様」と、同じ神を見上げていると言えなくもありません。もっとも、厳密に言えば私たちが「神様」と呼んでいる聖四文字”YHWH”の神は、イスラム教で言えば民族神に当たり、アッラー(Allah)がイスラエル地方で人々に現れる時にヤーウェの呼び名で現れると考えているようです。そもそもアッラーとはアラビア語のアル・イラーハ(al ilah唯一の神)を縮めた呼び方です。

 少し脱線しますが、私たちが普段用いている「神」と言う言葉は、もともと日本の「八百万の神々」、つまりは複数存在するなかの一つの存在を表現する言葉だとして、聖書を日本語訳する時に「神」と訳したことに異議を唱える学者達もいます。彼らに言わしめれば「神様」ではなく、「創造主様」と呼びかける方がより的確な表現ではないかと考えているようです。確かに、そうなのかもしれません。しかし、理屈はどうであれ私たちの国に聖書が伝えられた時代に、それを聞く民衆が彼のお方がどのようなお方であるのかをイメージしやすい言葉として「神」という言葉が用いられ、現在に至っています。呼び名が問題なのではありませんが、イスラム圏に属するインドネシア語訳聖書では「神」を表現する言葉としてアッラーと訳していますから、訳し方としては日本のそれに近いようにも思います。

本題に戻ります。
・ムハンマドとキリスト・イエス
 ムハンマドがこうしたイスラム教を布教したのはイエス様が昇天なさっておよそ600年後のことですから、当然彼はキリスト教のことは知っていましたし、聖書についてもよく知っていたようです。
 彼にとってイエス・キリストはアブラハム、モーセ、ダビデ、と同格の預言者の一人に過ぎなかったようです。しかし、ムハンマドは言います。「モーセもキリストもヤーウェの神から間違った啓示を受けた」と。だから、「自分が絶対神であるアッラーの神から頂いた正しい啓示を与えるのだ」と。
 つまり、彼にとって旧約聖書から始まった神の歴史が、イエスの時代を経て自分の時代につながっており、モーセもイエスもそして自分も共に神から選ばれた預言者で、中でも自分こそが最も偉大な最後の預言者であるとして、モーセやイエスよりも優越であると称えたのです。イスラム教の経典として知られるコーランには、「イスラムとはユダヤ教とキリスト教の信仰を確認するものである」と記されているほどです。それ故、ムハンマドはユダヤ教徒とキリスト教徒を「経典の民」と呼び、イスラム教にとって最も近しい宗教として、他の宗教とは別格に扱っていました。

・経典の民としてのクリスチャン
 私たちクリスチャンにとって全く対極にあるかのように思っていたイスラム教が、実は彼らにとって最も近しい宗教として感じられていたということなのです。イスラム教徒にしてみれば、ユダヤ教からキリスト教へと受け継がれた神の教えが、ムハンマドによって正しい方向へと軌道修正されたとの思いがあるのでしょう。その意味では、彼らにとってムハンマドこそが真の宗教改革者、完成者であるとの思いがあるのかもしれません。
 私たちがそうであるように、近しい者、愛すべき者が間違った方向へ突き進んでいる時には、その誤りをなんとしても正したいと思うものです。そうした心理が、彼らイスラム教徒の中に存在し、ユダヤ教徒や私たちクリスチャンに向けられています。
 私たちからしてみれば、それは彼らの勝手な思いこみでしかありません。しかし、彼らから見れば、私たちクリスチャンは彼らにとって近しい存在なのです。分かって欲しい、理解して欲しい相手であればこそ、分かってもらえなければますます躍起になり、「愛」はやがて「憎悪」へと転じることになります。兄弟姉妹への「憎しみ」。アメリカの同時多発テロにも、イスラエルとパレスチナの紛争にも、実はこうした背景があったのです。

・三つの愛
 さて、イスラム教についてはこの辺にしておいて、イエス様が「愛しなさい」と言われる「愛」について考えてみましょう。

 「愛」という言葉は「愛する」という動詞を含めて、新旧約を通じて聖書に356回登場しますが、日本語に「愛」という言葉で訳された言葉が、ギリシャ語聖書を見る時に、実は三つの言葉で区別されていることを知ることができます。

 まず一つ目に、
  アガペー       罪人である人間を愛する神様の愛で324回登場します。
                 「神の愛」とも、「無償の愛」とも言われます。
 二つ目に、
  フィレオー      兄弟愛、親子愛、友を愛する友情や金を愛する表現
                 にも用いられている愛で、30回登場します。(フィリア)
 最後に、
  エロース       男女間の性愛のことで、聖書には2回しか登場しません。

 神の愛と言われるアガペーが無償の愛であることは先ほど述べたとおりですが、無償の愛とは言い換えれば「見返りを求めない愛」という言い方もできます。
 対して、フィレオーエロースの愛は、人間的な愛で、「見返りを求める愛」とも言えます。私たち人間の愛が「見返りを求める愛」だとすれば、私たちが誰かを愛する時、いったい相手の何を私たちは愛するのでしょう。「見返り」とは、言うまでもなく「私の満足」です。私たちは、「私の満足」が得られない相手を愛し続けることはできません。兄弟愛にしても、親子愛にしても、友情にしても、恋人や夫婦の間にしても、私たちが誰かを愛する時、必ず相手にも「私を愛して欲しい」と願い、愛すると同時に相手の愛を確かめようとするのです。これが私たちの求める「見返り」です。

・人間の愛
 全く人間という存在は実に自己中心的な生き物です。愛することよりも愛されることをこそ欲しているのだと思います。つまり、私たちは愛されたいがために相手を愛するのです。
 そもそも、人間の心には相手を支配したいという欲望が宿っています。誰かと話をする時、相手の話を遮(さえぎ)ってまでも自分の言いたいことを喋ろうとする場面があります。或いは、相手が話をしている間、相手の話を聞いてる振りをして、次に自分が喋ろうとすることを考えている場面があります。これも、一つの支配です。自分から見て目下の者であったり、支配の容易い立場の相手であればあるほど、そうした傾向は強まります。人の支配、場の支配をするとき、へつらってきたり、何でも言いなりになる相手を「私を愛する者」として錯覚しますが、それらはすべて「私の満足」を満たすために、無意識に或いは意識的に作り上げた関係の上に成り立っているものなのでしょう。しかし、そのような「愛」で私たちは本当に満たされるのでしょうか。

・価値を手に入れるために
 「見返りを求める愛」、それは言葉を換えて言えば相手の持つ「価値」を愛する愛という言い方ができるでしょう。
 「お金を愛する」と言う表現を耳にする時に、貨幣や紙幣の材質やそこに描かれた図柄を愛してコレクションをしていると理解する人は殆どいないでしょう。大半の人がその通貨が持っている、1万円なら「1万円という価値をこそ愛している」と理解するはずです。

 同じように、恋人を愛する、夫を愛する、妻を愛する、兄弟を愛する、子どもを愛する、生徒を愛する、先生を愛するという表現を用いる時に、私たちはいつの間にか愛する対象が「私に満足を与えてくれる価値を持っているから愛している」と錯覚してはいないでしょうか。もしも「愛」が私の満足を満たすための手段であるとすれば、それは愛という美しい響きによって相手を「利用」しているに過ぎません。心理学では、こうした関係性を「道具的人間関係」と呼びますが、そのような関係は、相手に価値が無くなった途端に破綻してしまう関係です。そのような関係性の中で愛を錯覚している場合には、私たちは相手の心をつなぎ止めるために価値あるものであり続ける努力を重ねなければならなくなるのです。

・価値ある者であり続けること
 私は仕事柄、不登校の子どもとその親の相談を受けることがありますが、不登校に至る子どもたちの中に、こうした子どもたちが多くいることを思います。彼らは、人一倍、人からの愛を欲している子ども達です。その為に、幼い頃から、周囲から愛される存在であろうと、一生懸命に努力を重ねてきている子どもであると言うことができます。彼らは、「褒められることこそが、愛されることである」という錯覚に囚われている子どもと言うことができるかもしれません。それは裏を返せば、「褒められ続ける存在でなければ愛を得ることが無く、いつ見放されるかもしれない不安を抱えている」ことでもあります。こうした子どもは、一見とても「良い子」です。勉強に、スポーツに、或いは習い事に、強迫的なまでの完璧を期そうとします。そしてそれはある時期まで何とかうまくやっていくことができます。その間、親は何ら問題のない我が子に安心しきって、子どものそうした几帳面な姿を当たり前のこととして気にすることもなくなっていくのです。

 当の子どもにしてみれば、それまでの努力が100%ぎりぎりいっぱいの努力であったとしても、周囲がその姿を当たり前の姿としか見てくれない時には、更に周囲を振り向かせる愛をを得ようと思えば、110%、120%の努力を重ねなければなりません。また、自分とは直接関係なくても、例えば両親が互いに心を通わせることがなかったり逆に険悪であったり、兄弟や姉妹が身体的に或いは精神的に調子を崩すようなことがあると、「きっと、自分の頑張りが足りないからなんだ」と、オーバーヒート寸前まで頑張ってしまうことがあります。しかし、こうした自転車操業はそうそう続けられるものではありません。勤続疲労から心の節々に関節炎が起こって、心が虫息吐息の状態になってから、ようやく周囲が気づくこともあるのです。

・イエス様の愛
 では、イエス様が今日の日課で語っておられる「愛する」とは、いったいどのような愛し方なのでしょう。イエス様は福音書の中で最も大いなる愛とは「隣人のために自らの命を差し出すこと」であると語られました。そして語られたとおり、イエス様は私たち人間の罪のために自らの命を差し出され、最も大いなる愛を実行されました。いったい十字架に架けられ、命を差し出すことはイエス様にとってどのような見返りがあったのでしょう。そこには、見返りどころか裏切りしかありませんでした。裏切りに対する感情、それは憎しみでしかありません。しかし、イエス様は私たち人間を憎まれることはありませんでした。これこそが、「アガペーの愛」です。見返りを求めず、どんなに相手が自分に背を向けようとも、裏切ろうとも相手を中心に据えて相手の幸せを願う思い、これが無償の愛と言われる「アガペーの愛です」。与え与える愛、give & giveの愛とも言われる由縁です。
 対して、私たち人間が錯覚している愛は、与え奪う愛、give & takeの愛であると言われます。私たちは与えることで自分を満たそうとします。その意味ではその中心にあるのは常に自分です。しかし、イエス様の愛の中心にあるものそれは、自分でも相手でもありません。そこには常に神様が据えられているのです。愛は神から出たもので、神は愛そのものです。その神様を喜ぶ愛が「アガペーの愛」なのです。

・愛の中心に据えるもの
 愛の中心に自分がいてはなりません。中心に自分を据える時、それは愛ではなく「道具的な関係」でしかありません。それは「何かをしてもらったから、何かをしてあげる」、反対に「何かをしてあげたから、何かをしてもらう」giveに対してtakeを得ようとする利用のための「手段」に他なりません。愛は神からでたものです。私たちは愛を錯覚してはならないのです。
 「人間の愛」と言われる「フィレオーの愛」も、「エロースの愛」もその中心に自分がいてはなりません。人間の愛の中心にあるもの、それは「相手を喜ぶ」ことです。相手の行いや価値によらず、相手に同化して相手の喜びを私自身の喜びと感ずる感情こそが人間の愛なのです。子どもが言うことをきくから愛するのでも成績がよいから愛するのでもありません。愛に行いや価値は関係ないのです。子どもがたとえ法に触れることをしたとしても、たとえ重い障害を負い社会的価値を見いだせない者になったとしても、私たちは存在を喜び愛することができます。愛とは命に向けられるものだからです。そしてその命を生み出したお方、それは他ならぬ神様以外にないのです。命も愛も神から出たものです。
 私たちが敵と感じる相手の命さえも、神様の作られた命です。私たちが私たちの心の中心に神様を据える時、その命を呪ったり憎んだりできなくなるのです。

・敵を愛する
 同時多発テロに対する報復が始まろうとする頃、テロによって命を奪われた遺族の中から報復に反対する声が挙がりました。愛する者の命を奪われた当事者達からの声です。当然、『目には目を、歯には歯を』の賠償規定に基づいたお詫びも示されてはいませんでしたが、にもかかわらず、彼らは復讐に「NO!」と唱えたのです。もしも私の子が、私の妻が、私の夫がと自分の身に置き換えて考えると、簡単に口にできる言葉ではないことを思わされます。それでも彼らは反対しました。
 報復に反対した遺族の方々が言われるように、強制的な力で相手の命を奪い償わせたとしても、そのことを笑顔で喜べるかと問われれば、言葉がありません。たとえ、復讐が果たされたとしても大切な人を失った悔しく、悲しく、辛い気持ちは一生変わることはないからです。報復は、また、どこかで新たな悲しみを繰り返すことなのですから・・・・。
 私たち人間は、弱く不完全な存在です。弱いからこそ、不完全だからこそ完全である神様に中心に居ていただかなければならないのです。

 「あなたの敵を愛せよ」それは、神様を心の中心に据え愛する愛でなければ、実現できない愛であるように思います。