「迫害する者のために祈る」

マタイによる福音書 5:38−48
38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
レビ記 19:17−18
17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。
18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
コリントの信徒への手紙一 3:10−23
10 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。
11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。
12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、
13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。
14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、
15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
18 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。
19 この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちを、その悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、
20 また、、「主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを」とも書いてあります。
21 ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。
22 パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、
23 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。

YACCOのメッセージ

あなたの「敵」を愛するために・・・
主イエスの祈りに倣う

・そもそも「敵」とは、いったいなんのことを言うのでしょう。国語辞典には次のように書いてあります。「ある者にとって共存し得ないもの」または「滅ぼさなければ自分の存在が危うくなるもの」そして「ゲームや試合などで競合する相手」

 一口に
と言っても、いろいろなレベルがあります。匹敵とか好敵手、つまりライバルとして表現する自分と対等な立場の者から、恐怖を抱くものまでさまざまですが、共通して言えることは、と言う場合に、その相手は自分から何かを奪おうとするものであるということです。

 スポーツやゲームでは、私から得点を奪おうとする相手ですし、不安を感じるレベルとしては私の所有する金品を奪おうとする者、更に恐怖を感じるレベルとしては命を奪おうとする者があげられます。また、これら以外にも地位や名誉を脅かしたり奪おうとする者、アイデンティティーやイデオロギー、思想、信仰などの目に見えない精神的な価値を奪おうとする相手を
として呼んでいるのだと思います。

 世界から見て比較的平和な日本では、私たちが
を意識することは少ないのかもしれません。およそ、ここにいらっしゃるお一人お一人がご自分にとってのを思い浮かべようと思っても、具体的には思い付かない方が殆どなのではないでしょうか。むしろ、「私の敵は私自身だ」と、自分の意志の弱さを思う方もあるかもしれません。しかし、とまで意識してはいなくても、「苦手な人」というのは誰しもいらっしゃるのではないでしょうか。「どうも、あの人とは馬が合わない」とか「ソリが合わない」「ムシが好かない」「話しづらい」と感じる相手の一人や二人は誰にもいらっしゃるでしょう。

・ある特定の人に対して複数の人がそうした感情を抱くとき、不思議と結束したり、徒党を組んだりすることって無いでしょうか。何故なんでしょう?人って誰かの悪口を言って集まる時に、不思議と仲良くなるんですよねぇ。わたしが今生活の面倒を見ている施設の子どもたちにも、誰かを悪者に仕立てることで不思議と結束を強めるなんて姿を結構、目に耳にすることがあるんです。

 子どもだけではありませんね。大人だって同じようなことをやっています。皆さんのご近所でも似たようなことってあるんじゃないでしょうか。政治の世界もそうですね、代表質問で大切な審議をそっちのけに誰かをやり玉に挙げたり、吊し上げたり、足の引っ張り合いをしたり、国際社会でもアルカイダのオサマ・ビンラディン、イラクのサダム・フセイン、北朝鮮のキム・ジョンイルなどが、その対象になっています。確かにそれらの人々は悪い人なのかもしれません。でも、一緒になって誰かを批判・糾弾することで、それまで大して仲が良かったわけでもない者同士が旧知の間柄みたいに仲良さそうに見えてしまうことってないでしょうか?

 「わたしは知っている。あの人はこんな悪いことをした。」「わたしも知っている。その他にもこんなことをしていた。」それだけならまだいいんですが、問題の事柄とは全く関係のない性格とか家族とか、出身地とか、学歴とか色んなことを取り上げてどんどん悪者に仕立てていったりします。そして、それらの情報を共有し合った者同士が、まるで同門の徒であるかのような団結を見せたりするんです。つまり、「みんなの
としてスケープゴート(scapegoat=身代わり、犠牲)を仕立てることで結束する、見せかけの団結です。

・見せかけの団結はそれほど強い絆で結ばれているわけではないので、解散するのも早いですね。先日のJR福知山線尼ヶ崎での事故も、当初メディアによって運転士と車掌が最初のスケープゴートにされ、それがやがて親族に辛辣(しんらつ)な言葉を浴びせた新聞記者に移り、最終的にはJR西日本が悪者になりました。こんな風に、ターゲットが転々とすることもあるんです。JR西日本にすれば「過密ダイヤを望んだのは、マスメディアを始めとする世論ではなかったか」と言いたいんでしょうけど・・・。誰もが、「私は悪くない」と言いたいんです。
 だから、徒党を組んでいる者同士も互いに気が気ではありません。「いつ自分がターゲットにされるかもしれない」、そう思えばこそ自分に矛先が向かぬようターゲットについてやや誇張気味に尾ひれを付けて悪く言ったりします。そうする、尾ひれの方が大きくなって事実無根の発言が問題になると、「発信源は何処だ!」と新たな追求が始まったりしますが、途端に皆「知らない」「分からない」と闇に葬ってしまいます。結局、自分さえよければ他人なんてどうなったってかまわないみたいな風潮が、こうしたことの中にも浮き彫りにされているように思います。

 しかも、スケープゴートを仕立てる時、ターゲットとなる人に面と向かって「あなたの○○は良くない」とは誰も語りかけません。仮に語り掛けたとして、その時点では既にスケープゴート化された後であることが多いのではないでしょうか。国会の代表質問も、質問者が一人自分の意見として述べると言うより、グループの間でスケープゴートにした後で、「みんながあなたのことを○○と言っている」とか、「あなたについて○○と報じられているが」などと、虎の威を借りた狐のように発言をします。そこに至るまでにも、グループ内で「あの人は良くない」と言い合いながら、「ところで、この中の誰がそれを言う?」ということが議論となるや「いやぁ、私は本当はよく知らないし・・・」と尻込みする者が続出したりと、付け焼き刃の団結は、屋台骨がグラグラと簡単に揺らぎます。陰で好きなことは言えても、誰もが矢面に立つのは嫌なんです。

・子どもから大人まで、ご近所から国際社会まで、構造的には同じようなことをやっていたりします。「大人がそうだから、子どもまでがそうなのかもしれないし、国際社会がそうだから、ご近所までそうなんだ」という言い方があるのかもしれませんが、もしかするとこれって人間が生まれながらに持っている性質なのかもしれませんね。何故なら、こういう話しは、今に始まったことではないからです。旧約聖書の時代から現代に至るまで、わたしたち人類は同じような繰り返しを歴史の中に刻んできたように思うからです。

 もう一度、今日の日課であるレビ記を紐解いてみましょう。
19*17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。

これは、心のありように対する「戒め」です。ターゲットとなる当事者に無関心であるかのように装いながら、心の中で批判したり、当事者には知れないようにスケープゴートに仕立てるようなことをしないで、率直にその人に意見なり忠告、助言を述べなさいということです。後半の「そうすれば彼の罪を負うことはない」という表現は、「後々に彼の憎しみや恨みを残すことはない」ということを表しています。
続いて、
19*18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

・キリストが登場するまでの旧約時代、民衆は「復讐」とは「お前がしたように私もする」ということであると教えられ、「あなたがしたようには、私はしない」というのが「恨み」であると教えられていました。大勢の人の前で、集団の力をかさにきて特定の人を吊し上げる時、対象となる人はそこにいたたまれなくなるばかりか、恨みを抱いたり、心に復讐を誓ったりするでしょう。だから、同胞に率直に戒めを与える際の注意として、18節に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と教えられ、忠告が愛に基づいたものでなければならないことを述べているのです。しかし、時代と共にこの戒めは忘れ去られていき、そのことが今日の新約聖書の日課である主イエスの発言へと繋がっていきます。

38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

 ご存じのように
『目には目を、歯には歯を』は、紀元前18世紀頃バビロニアのハムラビ王によって制定されたハムラビ法典の「同害報復法」を代表する言葉として有名ですが、実は同じ言葉が旧約聖書にも登場していることを知っておられるでしょうか。しかも、聖書が伝える『目には目を、歯には歯を』は報復規定ではなく、聖書に登場する最初で、与えた損害に対してどのように賠償すべきかを規定していたという点において、大変興味深いのです。念のため、出エジプト記21章23〜25節を参照してください。

23命には命、24目には目、歯には歯、手には手、足には足、火傷には火傷、生傷にには生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。

 聖書中、もともと謝罪のための賠償ありかたとして記された律法が、時代を経る中で戒律主義が行き過ぎた結果、あたかも復讐の規定として「お前がしたように私もして良い」と解釈されるに至っていたのでしょう。これには、歴史的にバビロン捕囚を経験したイスラエルの民に、ハムラビ法典が少なからず影響を与えていたと考えられますが、主イエスは民衆に、レビ記に記された本来の聖書解釈を、改めて諭す必要があったのだろうとも考えることができます。

38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。

 ここで
「と命じられている」というのは、神様から命じられているということではなく、ユダヤ教ラビ(教師)から「と命じられている」が、ということです。そしてイエスは続けて「しかし、わたしは言っておく」と言われます。これは、何も「これから、キリストの時代の新しい解釈を伝える。」と言われたのではありません。「もともとの正しい解釈をもう一度あなたがたに伝える」という意味で語られたのでしょう。しかもその教えは、レビ記のそれよりもっと突っ込んだものでした。レビ記の表現では「隣人を自分自身のように愛しなさい」と教えられていましたが、主イエスはこの隣人にはすらも含まれるとして、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられたのです。

・デイビッヅ・ハープの歌に「みんな神様に愛されているんだ」というのがあります。この歌は、2000年の11月に子どもたちのために創った歌ですが、「みんな神様につくられた命を生きてる」というフレーズを書きながら、もしも子どもに「オウム真理教の松本智津夫の命も神様がつくったの?」と尋ねられたら、なんと答えればいいだろう・・・ということが頭をよぎりました。しかし、その時は「神様によって与えられたフレーズなんだからそんな心配はよそう」と、そのまま歌として仕上げたんです。しばらくして、予想が的中しました。ある日の夕飯の席でこの歌が話題に上り、当時小学生だった娘が「オウム真理教の麻原彰晃の命も神様がつくったの?」と訊いてきたんです。答えを準備していなかった私は、予想が的中したことに驚くばかりで言葉を詰まらせていたんですが、間髪入れず妻が「そうだよ」と答えました。娘は「神様はどうしてそんな人の命もつくったの?」と聞き返しました。それに対して「それはお母ちゃんにも分からないけど、神様はそんな人にも神様に愛されていることを知って欲しい、神様の愛を知って神様や人を愛する人になって欲しいって願っておられるんだと思うよ」と妻が答え、娘は「ふーん」と聞いていました。二人の会話を聞きながら、私は「そうなんだなぁ・・・だから、この歌のフレーズはこのままでいいんだ」と胸をなで下ろしていました。

・日本にも誰の言葉かは知りませんが、「罪を憎んで人を憎まず」ということわざがあります。しかし、正直、大切な家族の命を奪われた遺族にはなかなかそうは思えないでしょう。「神が命を創ると言うなら、神は何故、殺人鬼の命をもこの世に生み出すのか?」当然の疑問です。この殺人鬼が真の神に出会い救われるそのためだけに、数十人の命が犠牲にされなければならなかったのか?同様に、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロにおいても、オサマ・ビンラディンが救われるために数千人の命が犠牲とならなければならなかったのか?この他にも2001年6月大阪教育大附属池田小学校児童殺傷事件において、犯人:宅間守一人のために5名の幼い命が犠牲とならなければならなかったのか?宅間守は既に死刑が執行されていて真の神様に出会うことも許されてはいないし、松本智津夫、オサマ・ビンラディンについてもこの先、神の救いに与(あずか)るとは思われません。私たちはいったい彼らの命をどう理解したらよいのでしょう。むしろ、「神の創られた命ではない、悪魔によって生み出された命である」と思えれば、憎むことも恨むこともできます。その方が、遺族にとってどんなに楽か知れないのです。

・長崎県の佐世保市立大久保小学校で当時6年生だった御手洗怜美(さとみ)さんが同級生にカッターナイフで首を切られ殺害された事件から1年が経ちました。加害少女は栃木県にある国立の児童自立支援施設に収容されていますが、この少女も悪魔の申し子だったのでしょうか?
 事件から1年が経過し、当時の保護者達が重い口を開き始めました。その中に、
「事件に繋がるような予兆は、それまでに幾つもあったんです。けれど、学校側はそのことに真剣に取り組もうとせず、担任も『そういうことを僕に言ってくるな』と子ども達に言っていたそうです。事件は未然に防げたかも知れないんですが・・・。その意味では二人共が被害者だったという気がします。」という言葉がありました。
 奪った命の多さに関わらず、人が人の命を奪うには必ず何らかの背景があるように思います。その背景が何であるかを見る時に、犯行に及んでしまうその人の追いつめられた状況が浮き彫りになってきます。勿論、追いつめられていたから人を殺しても良いという論理は成り立ちません。しかし、ここでハッキリしていることは犯人一人ひとりの心の中に何らかの自身を脅かす脅威が存在していたということ、つまり、
が存在していたということです。

 冒頭お話ししたように、
とは国語辞典によれば「ある者にとって共存し得ないもの」または「滅ぼさなければ自分の存在が危うくなるもの」のことです。
 
麻原彰晃こと松本智津夫にとっての社会でした。彼にとって現実の社会は彼が理想郷として思い描く世界とは共存し得ない世界でした。それ故、ロシアから軍用ヘリを買い付け、日本全土にサリンをまき散らす計画を企てていたのです。

 また、
宅間守には池田小学校での犯行に至るまでに、19回の犯罪歴と14回の逮捕歴があります。彼にとっての敵はいったい何だったんでしょう。を妊娠した時、喜ぶ父に対して母が,「あかんわ,これ,おろしたいねん私。あかんねん絶対」と語っていたというエピソードがあります。真偽のほどは解りませんが、もしそうだとするなら、は望まれないで生まれてきたのかも知れません。生みたくなかった母は、もしかすると心の何処かでを拒絶し、愛せなかったのかもしれません。幼児期のあだ名はゴンタ、既に周囲から悪ガキ扱いされていて、3歳のときに三輪車で道路の真ん中を走り、車が渋滞するのを楽しんでいたといいます。また、小学校低学年の時には弱っている猫を新聞紙にくるんで火をつけたり、高学年時には好きな女の子の弁当に精液をかけるなど、十代に入ってからの彼の行動は更に常軌を逸していきました。池田小学校の事件後、25回に及ぶ公判の中で、は家族を始め「世の中のやつは全部敵や」と語っています。このように、彼の心の中にも確かにが存在していたのです。

 佐世保小学校の
加害少女にとってのは、被害者の御手洗さんでした。発端は事件より一週間ほど前、加害少女をおんぶした御手洗さんが「重い」と言ったことでした。聞けば何でもない言葉です。その言葉に対し加害少女はその場で文句を言いましたが、御手洗さんが自身のインターネットホームページに反論を掲載し、友達同士で回す交換日記にも同様の内容が書き込まれました。とても、「滅ぼさなければ自分の存在が危うくなる」ほど脅威を感ずるだとは思えません。しかしその時、加害少女にとって御手洗さんは「共存し得ない相手」になってしまったのでしょう。たったそれだけのことで、殺人事件へと発展してしまったのです。

 年齢も背景も三者三様ですが、私たちが彼らを社会の
であると認める以前に、彼らの心の中に、彼らを脅かすが存在していたのです。彼らにしてみれば、自身の凶行はそれまでに自分が敵から受けてきた仕打ちに対する復讐。しかし、復讐の生み出すものは復讐でしかありません。恨みを払拭できなければ、時を経て形を変え姿を変えて復讐が再燃します。あくなき復讐合戦、報復の連鎖を誰も止められなくなってしまうのです。

・三人に共通していることとして、「人格未熟」を挙げることができます。人格的に未熟な者が心の中にを大きく意識し過ぎたまま凶器を手にする時、凶行に及んでしまうことがあるのでしょう。欲しい物が何でも手に入る時代に、ストレス耐性、つまり我慢する力が育ちにくくなったと言われます。子どもだけでなく、大人にも我慢のできない者が増えています。それに加えて、コミュニケーションが稚拙で、対人間のトラブルを修復した体験の乏しい者に、いきなりの凶行に及んでしまう傾向が強まっているように思われるのです。

 
と認識するほどの対象でもないのに、として意識してしまう。そこには、反抗期にしっかりと親に反抗して来なかった者、或いは反抗はしたんだけど反抗後に親子間の関係をちゃんとは修復して来られなかった者の姿があるのではないでしょうか。
 反抗とは言葉を換えて言うなら自己主張のことです。私たちは若い時期に、親に対して自己を主張することにおいて、一旦は親を
としながら、親子であればこその和解=修復を経験することを練習台に、問題解決の糸口を学ぶのです。凶行に及んだ三人には、親子や身近な人間関係の中にこうした和解・修復を結んだ体験が乏しかったのだろうと想像できます。

 主イエスは言われます。
「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
と。

 他人なら「私の
と認識したとして、離れることもできますが、距離を置いた分その人との関係の修復は難しくなります。しかし、反抗の過程で親をとして意識した場合に、物理的にはそう簡単に離れることができません。まぁ、一時的に家出をして友達の家に身を寄せるということはあっても、多くの場合せいぜい自分の部屋に籠もるぐらいでしょう。しかし、このどうにもならない物理的条件が関係修復を体験する上での、大切な味噌になっているんです。

・小さな家で、どんなに親と距離を取ろうと思っても、トイレに行く時にバッタリ出会ったり、直接は関わることがなかったとしても、接触を避けようと思えば、入浴時や食事時に親の存在を意識しないでは生活できません。たとえ、重苦しい雰囲気の中で親と対立していたとしても、変わらず自分の食事が準備されていたり、洗濯物がたたまれて置いてあったり、布団が干されてふんわりしていたりすると、なんだか自分ばかりが対抗意識を露わにしているようで、段々に親の人格の大きさに根負けしてしまうものです。当然と言えば当然のこと。親にしてみれば、自分も通ってきた道なのですから。

 親の側には「いつか必ず解ってくれるはず」という自信があります。そしてその自信は、子どもを愛していればこそ「解ってくれるに違いない」という自信でもあるんです。子どもも同じです。親を愛していればこそ、心のどこかで自分の反抗を「認めてくれる」、或いは「許してくれる」と信じています。このように、お互いがお互いの関係を修復するために
愛というベース(基地)となる土台を持っているんです。
 家庭も小さな社会です。その中でぶつかったり離れたりしながら、人はコミュニケーションを学び、それを素にしながら外の世界で更に経験を増していきます。
「家庭が社会の縮図」なら、逆を言えば「社会は家庭の拡大図」と言えなくもありません。その意味では、今、社会が病んでいると感じられるのは、家庭が病んでいるからなのかもしれません。

主イエスは言われます。
「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」
と。

・「を愛する」とは、言葉で言うほど容易なことではありません。しかし、愛を土台として据える時、も神様の創られた命を与えられ生きている一人であることを知ることができます。といえども命を与えられている以上、私たちと同じに等しく太陽の光を受け、等しく雨の恵みを受けているのです。そしてそれは他ならぬ神様によって与えられているのです。

 主は「報復してはならない。報復は神に委(ゆだ)ねるべきである。」「人に人を裁く権利はなく、その権利を有するのは神だけである」と語っておられます。
 仮に私が
復讐したとして、それはの側に新たな恨みを抱かせ、新たな復讐を生ませることにしかならないのかもしれません。だとすれば復讐して後、私はからの報復を警戒しながら、あるいは怯えながら過ごさなければならないのかもしれません。だからと、私がの命を奪ったとしても、もしかするとその人が改心し神の子となるチャンスをも奪うことになるのかもしれません。それこそ大きな罪です。人の命を自由にできるのは、命の創造主である神様以外に認められてはいないのです。私たちに許されていること、私たちにできることは自分を迫害するのために祈ることしかないのでしょう。

 
とまで意識していなくとも、「馬が合わない」「ソリが合わない」と感じている人がいないでしょうか。あるいは誰かと一緒になってスケープゴート化してしまっている対象があなたの周りにいないでしょうか。反対に、あなた自身がスケープゴート化されていると感じて、周囲の人に憤りや憎しみを抱いてはいないでしょうか。もしもそういう人がいらしたら、どうかその人のために祈ってください。その人が天の父の子となることを諦めないで欲しいのです。たとえ、私たちがこの世に生を受けている間に、その実現を見ることがなかったとしても、祈り続ける心を主が解ってくださり、私たちを愛してくださるのですから。私たちにはそれで十分なのです。

 マタイによる福音書27章15節以下に、総督ピラトが
「バラバとイエスのうちどちらを釈放して欲しいのか」と問う場面が記されています。その問に民衆は「バラバを」と叫び、こぞってイエスを「十字架につけろ」「その血の責任は、我々と子孫にある」と言いました。現代を生きる私たちは、その時そこにいた民衆の子孫として、主イエス・キリストの血の責任を帯びている者です。そして私たちは彼らの性質を受け継ぐ者なのです。大祭司カイアファの扇動によってスケープゴート化された主イエスに、当時の民衆は人類を代表して「その血の責任は、我々と子孫にある」と言ったのです。
 イエス様はその裏切りに報復することも、お出来になったはずでした。しかし、そうはなさいませんでした。それどころか自分を裏切った民衆(人類)のために、十字架上で
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られました。復讐ではなく愛を行われたのです。

・最後に、今日の日課を2カ所読んで終わりにします。
コリントの信徒への手紙T第3章16〜17節
16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

マタイによる福音書第5章48節
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 
私たちは、このキリストとキリストの愛を土台として、その上に神の霊が住まう神殿を建て上げつつ生きる者とされているのです。