「信じること・真実」
ルカによる福音書17:11−19 |
11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 |
列王記下5:1-14 |
1 アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。 2 アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。 3 少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」 4 ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、 5 アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。 6 彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」 7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」 8 神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」 9 ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。 10 エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」 11 ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。 12 イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。 13 しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」 14 ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。 |
YACCOのメッセージ
「見極める瞳・聴き分ける耳」
−何故、キリスト教を信仰するのですか?−
●人は信じることなしには生きられない 「信じる」って、どういうことなんでしょう。国語辞典には「真実だと思うこと」と、記されていますが、漢字の造りを見ると「人の言(ことば)」って書きますよね。私たちが何かを信じるとき、多くは人から聞かされた言葉を「真実と思うか、真実ではないと思うかによって」信じるかどうかを決めているんだと思います。 考えてみると、私たちは信仰を持っているか持っていないかに関わらず、必ず「何かを信じているから生きていられる」のだとは言えないでしょうか?逆に言うと、何一つ信じられなくなったら、私たちは1秒たりとも生きていられないのかもしれません。 例えば今あなたが座っている椅子、”壊れるはずなどない”と信じているから座ってられますが、壊れると思えば最初から座りませんよね。例えば、飛行機、”多分落ちたりしないだろう”と信じるから搭乗することができますが、爆弾が仕掛けられているかもしれないと思えば誰だって乗ろうとはしません。食べ物についても、”毒物なんか入ってない”と信じるから口にすることができるのでしょうし、空気だって信じられなくなればガスマスクが手放せなくなってしまいます。地面だって”陥没するかもしれない”と思えば、一歩たりとも歩を進めることができなくなってしまうでしょう。 ●信じるために しかし、それら一つ一つのことについて、いちいち自分で安全を確認していたら大変なことになります。例えば自分の目で飛行機のあらゆる部分を細部まで確認して、爆弾が発見されなかったとしても、部品の小さな故障には気付くことができませんし、たとえ飛行機の状態が万全であったとしても、パイロットの精神状態や気流の状態までは確かめようがありません。もしも、自分で確認しなければ気が済まないということであれば、すべての点で専門家の知識を持たない限り、飛行機に乗ることすらできないことになってしまいますし、仮にそうした専門知識を持っていたとしても、すべてを自分で確認しようと思えば、あらゆる不安を払拭するための調査にとてつもない時間を要することになります。結局、飛行機は予定通りの日時にフライトすることができなくなってしまうでしょう。ですから、私たちは航空会社の「大丈夫ですよ」という言葉を、信じる以外にないのです。それを会社の言葉として信じるか、フライトアテンダント個人の言葉として信じるか、いずれにせよ人によって伝えられる言葉やメッセージを、私たちは信じているということになります。 このように、私たちは誰かの言葉を信じることなしには、1秒たりとも安心して生きることができない存在なのではないでしょうか。 ●信じすぎると こうした人の持つ「信じる習性」を応用して人を楽しませる技術に、手品やマジックやトリック、以外にも演劇やその他のパフォーマンスがありますが、悪用すれば犯罪に利用することも可能です。 近年社会問題化している事件として、孫からの、或いは警察からの電話だと信じ込まされたお年寄りが示談金を振り込まされる、所謂(いわゆる)「オレオレ詐欺」などがそうです。ご存知のように先週、オレオレ詐欺の被害総額が100億円を突破したと報じられたばかりです。当初この類(たぐい)の事件は、啓発が進めば一時のブームのように、やがて消えてなくなるだろうと思われていましたが、更に手口が巧妙化するばかりで一向になくなる気配がありません。最近ではインターネットホームページやメールでも、誰かになりすまして高額な情報料を架空に請求したり、個人情報の登録を促したりする類のものまで出現しています。それらの手口に共通して言えることは、必ず相手を冷静にはさせておかない演出を伴っているということです。冷静を奪われた者は、「信じてしまう習性」から、巧みな言葉にすっかり騙されてしまうのです。 ●巧みな言葉、そして誘惑 余談ですが、先日見ず知らずの名前の女性から「真面目な相談なので是非聞いてください。」という題名のパソコンメールが届きました。私が臨床心理士であることを知っての相談かとも思いましたが、基本的にアドレスは公開していないので変だなとは思いつつメールを開きました。 「27歳の既婚の女です。今主人と別居をしています。理由は主人の浮気です。 このメールを見て頂いておおよその内容は察していただけるかと思いますが。単刀直入に申し上げます。「私と主人と別居が終わるまで浮気相手」をして頂けませんか?もちろん、貴方に彼女がいても奥様がいてもかまいません。 正直言えば、主人に浮気をされ私もして許されるだろうと思い取った行動ですので責任は全て私が請負ます。 もちろん、私のわがままですしHOTEL代や食事代くらいは負担もいたします。 貴方に迷惑をかけるつもりもまったくありません。 一時の夢を私にくださいませんでしょうか?さすがに今日これからと言うのは唐突すぎるかと思うので早ければ明日にでもお会いしたいと思っています。 待ち合わせ場所などは私がタクシーで出向くと思うのでそのままタクシーに伝えて平気なような場所を指定して頂けるとありがたいです。 いきなりこのようなメールを送ってしまい申し訳ありませんでした。 しかし、私は至って真面目な話しをしてますので、どうか人助けだと思って会っていただけませんでしょうか?お返事お待ちしてます。」 と、結ばれていました。 メールを読みながら正直ドキドキしてしまいました。この時点で私は既に冷静を失ってしまっていたのです。メールを読んでる最中に、家内が書斎に入ってきたらどうしようとか、ただ手紙を読んでいるだけなのに既に浮気でもしているかのようにハラハラしながら、考えなくてもいいのにどんな女性だろうと想像してしまっていました。一呼吸置くためにメールを閉じて1階に降り、トイレに行きました。そこで少し冷静を取り戻して、 『待てよ、アドレスを公開していないのに、どうして私が男性であると分かったのだろう。男性であることが分かっていたとしても、私が27歳の女性の相手にふさわしい年齢であるかどうかをどうやって知ったのだろう。タクシーで出向くと書いてあるが、私がどこに住んでいるのか分かってそう書いているのだろうか?』 次々と疑問が沸いてきました。そこで、これらの疑問に答えてもらうべく返信を書こうと思ったのです。書斎に戻り、以下のように返信しました。 <あなたは、私が何歳ぐらいで、どこに住んでいるか知っているんですか?知っているのだとすれば、どこからその情報を入手されたのか教えてください。> 次の日、「私のような女に返事頂きありがたく思います。」というタイトルの返事が届きました。そして、 「私、話し方が堅いですよね…実際少し緊張してまして。少しお近づきの印しに自己紹介をさせていただきます。前メールでも言いましたが、27歳の既婚者です。芸能人で言えばともさかりえに似てると言われた事が数回あります。かなり細めな身体をしてると自分では思います。前のメールでは少し遠まわしに言ってしまいましたが、正直浮気をしたくてメールしました。大人な付き合いをして頂けたら嬉しいです。女にだって性欲はあるんですよ…。〜中略〜 ところで、今日の夕方〜明日の昼すぎまでまったく予定がないんですが、すぐにでも会って頂けますか?今、自宅のパソコンからのメールなので、今から少し出かけてしまうのでメールを頂ければ夕方くらいには返信しますね。何処で会うかなど詳しいメールを返信していただけると嬉しいです。では、また夕方くらいにメールを拝見しますね。お返事待ってます。」 「また夕方ぐらいにメールを拝見しますね。」と書かれたメールの送信時刻は、18時31分でした。この人にとっての夕方って何時からのことを言うんだろうと不思議に思いましたが、それ以上に不思議に思ったことは、私の質問に対する回答が何一つ記されていなかったという点でした。そこで、 <前回のメールで私が質問したことに回答してください。答えていただかなければ、これ以上メールの交換を続けることはできません。あきらめてください。> と、返事のメールを送りました。 その翌日、「まずいことになりました。今から家を出ます」という題名のメールが届きました。 「別居中の主人が突然こちらに来ると言ってきました。会いたくないので今からタクシーで家を出ます。だから今夜は家に帰ることはできません。今の私にはあなたのことしか考えられないんです。すぐにでも会ってください。私の携帯電話番号と携帯アドレスを以下のホームページアドレスの掲示板に掲載していますので、私の携帯に連絡下さい。待ってます。いつまででも待ってます。今夜私を一人にしないで下さい。私には帰る場所がないんです。もう、あなたしか頼る人がいないんです。お願いします。」 ●揺さぶられる感情 うーん、頼られても困るなぁ・・・ホントに助けて欲しいなら、直接携帯番号をメールで送ってきたら良さそうなものを・・・と思いながら、指定されたホームページアドレスをクリックすると出会い系サイトに接続しました。どうやら新規登録の手続きをしなければ彼女の携帯番号と携帯アドレスを知ることはできない仕組みになっていました。下心があれば当然登録してしまうのでしょうが、登録すればおよそそれなりの架空請求が届くことになるのでしょう。何故なら登録画面には、私の住所、電話番号、氏名、年齢、生年月日その他の個人情報をインプットするように書式化されていたのです。多額の架空請求がないまでも、個人情報としてネットの世界に出回ることになるであろうことは十分に推測できます。数を集めれば、名簿だけでも数十万から数百万円の儲けになる世界です。相手の弱み、下心につけ込んだ巧みな詐欺行為といわざるを得ません。 よくよく思い起こしてみると、私は昨年末に個人情報流出で世間をにぎわせたプロバイダと契約を結んでいて、今年の6月に新たに別のプロバイダと契約を結んだんですが、この女性からのメールは個人情報を流出させたプロバイダの旧いメールアドレスに届いたものだったのです。 相手の女性のメールには最後まで私の質問に対する回答はありませんでした。そう考えると、相手に実態はなく、誰かによってあらかじめ定められたメールが順番に送信されているに過ぎないということなのでしょう。その証拠に、全く同じ文面のメールが違った女性の名前で未だに届くのです。そして、数字を打ち込んだだけのような文章にならないものでも、返信さえすれば同様のメールが順番に届き、最後には必ず特定の出会い系サイトに登録するよう勧めてくるのです。 決まった文面の、順番に送り届けられる”さくらメール”。タネが分かれば何でもないことです。しかし、そのメール文一つ一つは、受け手の感情を揺さぶるよう巧みに作文されています。そして、悪いことだとは分かっていても、「あなただけ」とか「助けて欲しい」なんて書かれると、存在しない相手があたかも存在しているかのように感じてしまい、信じそうになってしまいます。私はトリックを見抜くことができましたが、見抜けない相当数の人が騙されて、自ら個人情報を明らかにしてしまっているんだろうと思われます。 ●真実って・・・・ 信じるとは、「真実であると思うこと」であるとお話ししました。しかし、いったい「真実」って何なのでしょう。 基礎心理学という学問があります。これは人間のあらゆる感覚受容器に与えられた刺激を、脳がどのように知覚し認知するかについての研究を深める学問ですが、知覚について解決できていない大命題があります。 例えば、視知覚について。皆さんで一つのリンゴを眺めたとします。一様に皆がそのリンゴの色を「赤」であると答えたとします。しかし、そのリンゴが私たちの目に赤く見えたとしても、実は、リンゴそのものが赤いわけではないのです。「えぇ?何言ってんの?」と、お思いでしょう? ご存知の方があるかもしれませんが、私たちが見ている「色」は特定の波長を反射している光を見ているに過ぎないのです。つまり、リンゴが赤いのではなくてリンゴの反射する光が赤いのです。しかし、私たちが赤い光を赤という名前で呼ぶのは、実は記憶と学習によっています。生物として同じ細胞組織によって構成されている身体を持っている者同士、人はほぼ同じように外界を知覚し認知しているだろうことは推定できますが、あなたと私が認知している赤が全く同じに見えているかと言えば、それは同じではないのかもしれないのです。少し違って見えていたとしても、それぞれの過去の記憶と学習によって、互いにそれを「赤」と呼んでいるだけなのかもしれないのです。本当の意味でこれを検証しようと思えば、視知覚を認識する脳細胞を互いに移植し合って、その見え方を比較するしかないのですが、そんなことできっこありません。 このように、私たちが確かであると思い信じ込んでいるものの中にも、決して確かではないことがあります。もしかするとこの世は不確かなもので溢れかえっているのかもしれません。だとすれば、私たちはいったい何を信じられるのでしょう。 キリストを声高に述べ伝えたとして、それを聴いた相手が突然稲妻に撃たれたように神を信じるようになるなんてことは殆どないでしょう。大抵の場合、殆どの人がまずは人を信じ、信ずべき人の言葉を真実であると思ったときに、その事柄を信じるのではないでしょうか。 先ほども述べましたが、この世は不確かなもので溢れかえっています。それはインターネットの世界だけではありません。恐ろしい言葉、不安をかき立てる言葉、欲望を煽る言葉の嵐の中で、私たちは絶えず騙されることにビクビクしながら生きていかねばならないのでしょうか。残念ながら、「そうである」と言わざるを得ません。そして、そのような世の中に、私たちは自分たちの子どもを送り出さねばならないという現実に生きているのです。 ●子どもたちも言葉の嵐の中に 常日頃、私が我が子に言って聞かせていることがあります。それは、 「親として、お前たちに対して果たすべき責任は、本物を見極める瞳(め)と、本物を聴き分ける耳を養ってやることだと思うし、それ以外にしてやれることは何もない」 つまり、信じられるものと信じられないものを弁別する力のことです。いつまでも、どこまでも親が一緒に歩き続けてやることなどできません。いずれは、子どもが自分の足で社会に歩き出さなければならない日が訪れるのです。ですから、その日を迎えるまでに、親の責任として、溢れかえる情報の中から本物を見極める瞳と聴き分ける耳を養ってやらなければと思うのです。そして、それさえ身につけてくれれば、親としてそれ以上の成果を望むことはないし、望むべきでもないというのが私の考えです。それは、我が子に何も期待していないということではありません。 親として、将来お金持ちになれるように育ててやるとか、学者になれるほどに勉強好きに育ててやるとか、プロのスポーツ選手、或いはプロのアーティストに育て上げるなど、責任を持って約束することなど私にはできません。責任も持てないのに、約束もできないのに、そうした成果を子どもに求めることは親の身勝手としか言いようがないのではないでしょうか。ただ、本物を見極める瞳と本物を聴き分ける耳を養ってやることさえできれば、あとは子どもが自身の力で、つかみたいと思うものをつかんでくれると信じてやるほかはないと思うのです。 ただし、聖書的観点で人生の価値を考えるとき、学歴や収入や社会的地位は人生の目標ではありません。それは人が定めたものであって、神が定めたものではないからです。その上で、子どもや私たち一人ひとりが何をライフワーク(必ずしも収入を伴わない働きも含みます)とするかについては、神の召命(しょうめい)によって一人ひとりに違った役割が与えられるのだと思います。 親の務めは、子どもにこうした目と耳を養わせる過程で繰り返されるであろう失敗に、向き合い寄り添ってやることでしょうし、そのプロセスを経て子どもが目標を定めたときに、目標達成のために、あるいは少しでも目標に近づくために応援してやることなのではないでしょうか。実際のところ、親にしてやれることって、結局それしかないのではないかと思います。 ●信仰の在り方 今日の聖書のテキストは、信仰するとはどういうことかを私たちに知らせている箇所です。まず、新約聖書に記されている10人の重い皮膚病を患っていた人々は、自分たちの病気を癒してもらいたいと「イエスさま、先生、どうか、私たちを憐れんでください」と願いました。イエス様は彼らを見て「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と指示しました。そしてイエス様が指示された通り祭司のもとへと向かう途中で皮膚病を癒され、その内の1人だけがイエス様のもとへと戻ってきたのです。この戻ってきた1人と戻ってこなかった9人とでは何が違っていたのでしょう。 聖書には戻ってきた1人は「大声で神を讃美しながら戻って来た」とあります。つまり、この人と他の9人との違いは神を信仰していたかどうかという点です。10人全員が、時の人であるイエス様のことは知っていました。そしてイエス様が各地で癒しを行っておられたことも知っていたのでしょう。つまり10人が10人ともイエス様の癒しの力を信じて「憐れんでください」、つまり「癒してください」ということを願ったのです。しかし、9人は癒しの力は信じていても、イエス様が神の子であることについては信じていなかったのだと思います。自分の願いさえ叶えば、あとのことは重要ではなかったのでしょう。それならば、残りの9人についてイエス様が癒しを与えられる必要はなかったのかということになりますが、あえてイエス様がそのようになさったのはユダヤ人ではない外国人のサマリア人が信仰を言い表したことを通して、信仰するとはどういうことかをその場にいる者たちに知らしめる目的を持っておられたと考えることができます。 ●医療的癒しへの期待 つまり、主の行われる「奇跡」は、誰かの願いを聞き入れることで現されるものではなく、神の栄光を現すために行われるのだということです。ですから、神の栄光を自らの身体に表していただいた者は、神への感謝を公に言い表すことを通して神に栄光を帰する証し人とならなければならないのです。そして、サマリア人はその通りに証ししました。対して残りの9人は、ただ皮膚病を治してもらえたらそれでよかったのでしょう。怪我や病気を病院で治してもらうように、9人にとってイエス様は単に医師でしかなかったのかもしれません。 これは今回の旧約聖書のテキストに登場するアラム王国の軍司令官、ナアマンにも通じる姿勢です。9人はその重い皮膚病の故に貧しく、イエス様に医療報酬を支払うことのできないものたちでしたが、ナアマン軍司令官は銀十キカル、金六千シェケルを携えて、預言者エリシャのもとへと向かっています。(ちなみに銀10キカル=342sを現在の取引価格に換算すると約834万5千円になり、金6,000シェケル=68.4sは約1億100万円になります) ナアマンの準備したお金の中には旅の費用も含まれていたとは思いますが、当然、エリシャへの報酬も含んでいたと思われます。ナアマンはアラムで妻の召使いとしていたイスラエル人の少女から、良い”医師”がいると聞いて旅をしてきたのです。私たちが地元の病院で不治を宣告されたとしても、他の都道府県に良い専門医がいると聞けば、藁(わら)にもすがる思いで診察に赴くのと同じです。 医師のもとへ赴けば、当然診察をしてもらえると誰もが思います。ところが、エリシャはナアマンに会うこともせず、使いをやって「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」と言わせました。長旅の末に多くの家来を引き連れてようやくたどり着いたエリシャの家の前で、そんな風に言われたら、まるで門前払いです。ナアマンは神への信仰を持たない、ただの患者としてその場にいたに過ぎません。現代の私たちだって、名医と聞いてはるばる遠くの病院に赴き、受付で同じ事を言われたら怒って「馬鹿にしてるんですか!」と言わないでしょうか?まして、ナアマンは治療費として多額の報酬も準備してきていたのです。 ●誰の言葉を信じるのか 話しを最初に戻しますが、「信じる」ってどういうことなんでしょう?国語辞典には「真実だと思うこと」と、記されていますが、漢字の造りを見ると「人の言(ことば)」って書きますよね。私たちが何かを信じるとき、多くは人から聞かされた言葉を「真実と思うか、真実ではないと思うかによって」信じるかどうかを決めているんだと思います。 ナアマンは、エリシャの使いから聞かされた言葉を信じることができませんでした。ナアマンは神を知りませんでしたから、なおさらその言葉を信じることができなかったのでしょう。しかし、家来の何人かがエリシャの言葉を信じてみましょうとナアマンを説得します。彼らが真の神への信仰を持っていたかどうかは定かではありませんし、『こんな遠くまで来て、手ぶらで帰る訳にはいかない』という思いで説得したか否かは定かではありませんが、いずれにせよ家来たちはエリシャの言葉を信じてみようと言ったのでした。そう言う意味では、家来たちの方がナアマンより信仰的であったということができます。ナアマンはエリシャの言葉に疑いを抱きながらも、家来の言葉を信じることにしたのです。 ●奇跡を受ける資格・・・? 家来の説得に応じて、ナアマンはヨルダン川の水で七度身体を洗い清くされました。 サマリア人と共に癒された9人は、癒されることについては信じていましたが、ナアマンは癒されるかどうかについても半信半疑でした。しかし、神はそのような信仰を持たない者にも奇跡を現されたのです。それは、どうしてなのでしょう。 答えは単純です。それは、神の栄光を現すためです。癒されたナアマンは、エリシャのもとを訪ね、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」と証しを立てました。ナアマンは自身の皮膚病が癒されるまでは神を信じてはいませんでした。むしろ、バカにされたとさえ思っていました。そのナアマンが神への信仰を言い表したことは、従って来た多くの家来の前で、神に栄光を帰する行いだったのです。そして、およそナアマンの証しによって、多くの家来が共に神を信じる者となったであろうことが想像できます。 ●一般的な信仰のモチベーション? さて、多くの人が艱難(かんなん)の中にあるとき、自分ではどうしようもない問題の解決を求めて宗教にすがろうとします。災害、事故、病気、障害、貧困、差別、人間関係など、苦しく辛い現状を何とかしたくて、藁にもすがる思いで宗教の門を叩きます。しかし、自分の思い描いた結果が得られないとなると、すぐさま踵(きびす)を返して、異なる宗教へとドクターショッピングでもするかのように、次々と渡り歩く人があります。また、中には複数の宗教に同時に入信している人もあります。「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」ということなのでしょうか。このように、多くの人が、奇跡とまでは言わなくとも何らかの「御利益(ごりやく)」を求めて宗教の門を叩いているように思います。 ●成就するもの 確かに聖書には奇跡が記されていますし、現代においても奇跡が現されることがあります。しかし、それらは信仰する者が苦しい修行を乗り越えたからとか、信仰がある一定のレベルに到達したからという理由で報酬のごとく現されるものではないことを知っておく必要があるでしょう。サマリア人と共に癒された9人も、ナアマンも決して敬虔(けいけん)な信者ではありませんでした。にもかかわらず奇跡が現されたことは、それを共に経験した者や後世に聖書記事を読む者が神に栄光を帰すようになるためであって、決して献金や献身に対するご褒美ではないということです。そしてそれらの奇跡はすべて、神が前もって定められた計画によって現されているのです。 誰かが、お金持ちになりたいからとキリスト教に入信したとしても、おおよそ、その願いは叶えられないでしょう。人は神の被造物であって、神が人の利己的な願いを叶えるために存在しているのではありません。神の愛を受け信じる者に、神の思いを行わせるために人が存在しているのです。つまり、人の思いが成るのではなくて、神の思いこそが成るのです。勿論、人の願いが神の御心(みこころ)に適(かな)うものであれば、その人の願いは必ずききとどけられます。祈りは決して無意味ではありません。 ●キリストを信仰すること これまでお話ししてきたように、キリスト教は決して御利益を期待して信仰するものではありません。真理を求める者に説き明かされる唯一の教えです。 私たちが生まれて存在していることの意味、この世を生きる目的、そして永遠の命への扉を開く唯一の鍵、それがキリスト・イエスの十字架と復活なのです。 真実も嘘も言葉によって伝えられます。さまざまな言葉と情報の嵐の中で、私たちが本物を見極め、聴き分けることは決して容易なことではありません。そして、溢れかえる言葉と情報の渦の中でキリストの真理を述べ伝えることも、同様に容易なことではありません。 だからと言って、人の注目や傾聴を集めるために、聖書の奇跡記事を利用して御利益(ごりやく)を強調したり、いたずらに終末の記事だけを取り上げて人々の不安を煽ることで入信を勧めることは、真理を歪(ゆが)めて伝えてしまうことになります。ただ闇雲に人を集めさえすれば良いのではありません。真理は決して歪められてはならないのです。 聖書に記された真理、それは一言で表現するなら「愛」です。ですから私たちクリスチャンが、まだ真の神を知らない方々にお伝えすべきことは、どんなに孤独を味わっていようとも、キリストの十字架の故に私たち一人ひとりが神に愛されているということと、そしてどんなに辛く苦しい境遇の中にあろうとも、キリストの十字架の愛の故に私たちに平安が与えられるということです。 イエス様はご自身の命を代価として十字架にかかってくださり、罪と死の奴隷である私たちを贖(あがな=買い戻し)ってくださいました。そして、死に打ち勝ち復活されることによって、私たちに永遠の命(死後の復活と天国での憩い)を約束してくださったのです。このことの故に私たちクリスチャンは、主イエス・キリストに信仰を寄せているのです。 私たちは唯一真実であるお方を知っています。しかし、それでもなお、弱い私たちは溢れかえる言葉の中で何が真実であるかを見失いそうになるときがあります。だから、祈りましょう。重い皮膚病を患っていた10人が「どうか、私たちを憐れんでください」と祈ったように。そうすれば主イエス様があなたと共にいてくださり、真実を見極める瞳と真実を聴き分ける耳を与えてくださいます。 |