エリヤの絶望

列王上19章1〜18
◆ホレブに向かったエリヤ◆
19:1 アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。19:2 イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
19:3 それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、19:4 彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」19:5 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」19:6 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。19:7 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。19:8 エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。19:9 エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」19:10 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。19:13 それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」19:14 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」19:15 主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。19:16 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。19:17 ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。19:18 しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」

YACCOのメッセージ

祈りは誰のために
エリヤの魂の傷みに寄り添った神様

・飾らない赤裸々な歴史書=旧約聖書
 世の中には実に多くの宗教が存在し、宗教毎に実に多くの教典と呼ばれる教理を書き記したテキストが存在しますが、およそ聖書ほどに人間の愚かさを記した教典は他にないのではないかと考えることが多くあります。とはいえ、私自身が数多く存在するすべての宗教の教典に習熟しているかといえばそうではありませんが、例えば名のあるホテルに宿泊すると、部屋の引き出しにはギデオン協会寄贈の新約聖書と共に、仏教の経典が納めてあります。仏教の経典は聖書に比べて字も大きく、なるほど人生の教訓的な「人生とは斯くあるべき」、いわゆる「教え」が記されているのに対し、聖書は物語調に人間の愚かさが繰り返し記されていて、そこに書かれた物語から人生の「教え」を導き出すためには、少し頭をひねるか誰かに注釈を与えてもらう必要があるように感じます。つまり聖書は他の宗教の教典に比べて解りづらいのではないかと思います。

 それにしても旧約聖書には人間の神様に対する背きが繰り返し記されていて、読めば読むほどにクリスチャンの私たちでさえ呆れてしまうほどですから、ノンクリスチャンの方々にはことさらに旧約聖書の物語は難解に感じられるのではないでしょうか。

・奇跡が必要だった時代
 旧約聖書を読むと、神様から与えられた多くの奇跡を人類が体験してきていることを知ることができます。奇跡とは当然科学的には説明の付かない不可思議な現象のことをいいますが、当時の人々がそうした奇跡体験を神様に与えられていながら、繰り返し神様に背を向けていることを思うときに、私たちは「どうして奇跡を体験をしながら、神様を信じられないかなぁ」と思わざるを得ません。しかし、まだ科学のない時代、当時の人類は今ほどの科学的知識を神様から与えられてはいなかった時代です。程々の科学的知識を与えられている現代の私たちから観れば、そこに行われた奇跡がどれほどに信じがたい奇跡であるかを解ることができても、当時の人類にとって比較検討するものがなく、何を見てもすべてがただただ不思議であっただろうと思われます。

 もしも当時の人が現代を訪れたなら、現代という世の中は奇跡に満ちあふれている時代と感じることでしょう。飛行機で人が空を飛び、地球の裏側にいる人と電話で会話をし、衛星放送を用いて瞬時に遠く離れた国の状況をモニターで観ることができ、わずかな薬で病気が治り、輸血や内臓の移植で命が助かり、クローン技術によって全く同じ顔、同じ模様の牛が何頭も存在し、爆音と共に瞬時に大量の人を虐殺する兵器が存在する様を目の当たりにすれば、それがいくら「科学」のなせる業だと説明しても理解することは難しいことでしょう。果ては、手品師がトランプを出したり消したりする様を観るだけで、そのトリックすらも奇跡として受け止め、何かの宗教の布教師が手品さえ見せれば、言われるままに信じてしまっても不思議ではありません。私たちに「そんな馬鹿な・・・」と思えるようなことが、当時の人々にとっては大まじめなことであるに違いありません。それほどに人々は単純で無垢で、言い方を変えれば幼子のように純粋だったのではないでしょうか。だからこそ科学のない当時には神様の奇跡が必要だったのかもしれません。

・精神的分離不安を繰り返す人類
 私は臨床心理学を生業としていますが、心理学のフィルターを通して聖書を観るときに、聖書に民衆として描かれている人類としての精神発達の過程が、なんとなく漠然と現代人の人格形成における精神発達の過程と似通っているのではないかと感ずることがあります。つまり、創世記のアダムとイブに始まる時代は、私たち人類にとっての胎生期の時代として、エデンの園と呼ばれる神様の胎内で臍の緒に繋がれて生きることを許されていた時代から、悪魔の誘惑を受けてこの世に産み落とされ目を開き、様々な外の雑菌に触れながら神様の母乳によって生かされた時代を表しているのではないかと感ずるのです。人の発達は、親から分離し、一個の個体として自立する過程ですが、その後の旧約聖書を観れば人類は様々に神様から分離し、神様を必要としない歴史を歩もうとしていることは明かです。しかし一方で親から離れすぎて親を見失った場合には心に不安が起こり、親や或いは親に変わる何かを依存対象として求める。そうした過程がことに旧約聖書には繰り返し記されている気がするのです。

 さて、神様によってイスラエルと名付けられ、新たな統治を許されたその国は、ダビデの子、ソロモン王の時代に栄華を極めましたが、その栄華の故にそれまでの神様に庇護されていた歴史を忘れ、当時神様によって禁じられていた諸外国の女性に心を奪われ700人もの王妃と300人の側室を迎え入れたことで、諸外国で神として奉られていた偶像をイスラエルに持ち込んでしまいます。ソロモンにしてみればそれは千人に及ぶ妃達の心を繋ぎ止めておくための手段であったのかもしれませんが、こうした背信を神様が許しておかれるはずはなく、後にエドムによってイスラエルはユダとイスラエルの二つの国に分裂させられてしまいます。にもかかわらず、後のユダとイスラエルの二つの王国は、偶像に心奪われる神様への背信を幾度となく繰り返し続けるのです。

・真の神への畏れを忘れ
 分裂後のイスラエルの王アハブも、ソロモンに同じく外国であるシドン人の王から妃を迎え、妃イゼベルの信仰していた偶像バアルに進んでひれ伏しました。この時アハブ王が「あの有名なソロモン王だって妃のために女神アシュトレトやミルコムの偶像を拝んだではないか、しかもソロモン王は聞くところによれば千人に及ぶ妻を迎えそのようにしたのだから、私がたった一人の妃イゼベルの為にバアルの神殿を築き、アシェラ像を拝んだところで大した罪ではあるまい・・・それに、こうしたことは歴代の王達も皆やってきたことではないか・・・」と考えたかどうか判りませんが、主なる神様に背く”
”に対する感覚が麻痺していたと言うことはできるのかもしれません。

 その後、妃イゼベルは主なる神の預言者達を大量に虐殺し、とうとう主の預言者はエリヤたった一人が生き残るだけになってしまいました。エリヤはアハブ王に数年に及ぶの干ばつを預言した後、神様によってその身を隠されます。予言は的中し大変な飢饉が訪れますがアハブ王は回心するどころか更に心を頑なにして、エリヤを諸悪の根元であるかのように国内はもとより近隣諸外国にまで指名手配します。三年が過ぎた頃、エリヤはアハブ王に姿を現し、真実の神がどなたであるか決着を付けようと一つの奇跡を通してアハブ王に最後の回心を迫ったのでした。

・真の神へ立ち返らせるために
 イスラエルのすべての民と450人ものバアルとアシェラの預言者をカルメル山に呼び寄せ、二頭の雄牛を焼き尽くす捧げ物として一方をバアル神に、もう一方を主なる神に捧げるために薪の上に並べて置かせたのです。最初にバアルの450人の預言者達によってバアルの神に祈りが捧げられますが、祈りが聴かれるはずもなく半日経っても薪に火がつくことはありませんでした。その後、エリヤは、主なる神への焼き尽くす捧げ物に四杯の瓶いっぱいに満たした水を三度掛けさせた上で主なる神に祈りました。すると天から主の火が下って焼き尽くす捧げ物を、水もろとも嘗め尽くし、燃やし尽くしたのでした。これを見た民衆は「主こそ神です」と言ってひれ伏し、バアルの預言者450人を捕らえて一人残らず殺してしまいました。直後、アハブ王はエリヤの言葉に従いますが、ことの次第を聞いた妃イゼベルは回心するどころか更に心を頑なにして、バアル神に誓ってエリヤに刺客を送ると告げてくるのです。

・人間関係優位の誤った信仰
 あれほどの事件がありながら、アハブ王が妃イゼベルの故に主なる神を見上げようとしない現実に、エリヤはほとほと悲嘆にくれてしまいました。私は個人的に男性としてアハブ王の男の性(さが)に悲嘆を感じてしまいます。創世記のアダムがイブに対してそうであったように、また、モーセ時代のエジプト王のファラオ・ラメセス二世がそうであったように、更にはダビデ王もソロモン王も、アハブ王と同じように女性の誘惑に打ち勝つことができませんでした。

 まぁ、歴史そのものが男性を中心に描いてあるために否応なしにそうした物語が数多く印象に残ってしまうのでしょうが、それにしても男って奴は女性に対してだらしないと言うか、私自身の中にもそのような性(さが)が潜んでいるのだとしたら、こいつは参ったなぁと言うのが正直な感想です。歴史の陰には必ず女性の姿があって、案外歴史の後ろで糸を引いているが女性であるとすれば、歴史は女性によって操られてきた、というのは言い過ぎかもしれませんが、いずれにせよ、男であれ女であれ私たち人間は、目先の人間関係を主なる神に優先させてしまう愚かしさを持っているようです。

・エリヤの過信と落胆
 ところでエリヤの悲嘆を表している言葉として、4節に
「主よ、もう十分です。私の命を取って下さい。私は先祖にまさる者ではありません。」との祈りが語られています。神様から力いただいて決定的な奇跡を示しながらも、アハブ王も民衆も妃イゼベルを正すことができないばかりか、尚も妃イゼベルの言いなりになっていることに己の無力さを感じてしまったのです。「自分以外のもっと優れた先祖の預言者であれば、もしかするとこのような結末ではなかったかもしれない。自分ではなく、ここにモーセがいて焼き尽くす捧げ物の奇跡を示したならば、妃イゼベルを含むすべての民が主に立ち返ったかもしれない・・・」と考えたことでしょう。

 エリヤは行われた奇跡が自分自身の力ではなく、神からの力であったことを知りながらも、期待はずれの結果になったことの責任が自分にあったのだと考えて、自分自身の不甲斐なさに落胆してしまうのでした。しかし、エリヤが「私は神様の期待に添うことができなかった者」として自身を攻めるのだとしたら、それは同時に「神様が人選を誤られた」ことを自ら明らかにしてしまうことになります。つまり神様の過ちを認めることになるのです。けれども、一体、私たちは過ちを犯す神様を信じているのでしょうか?嘘をつく神様を信じているのでしょうか?どっちに転ぶか解らないような当てにならない神様を信じているのでしょうか?そうではありません。

 確かに神様はエリヤを通して焼き尽くす捧げ物の奇跡を行われました。しかし、ただ一度の奇跡でイスラエルが主なる神様に立ち返るを束されたわけではなかったのです。けれども、エリヤは奇跡を目の当たりにしながら、「これほどの奇跡を体験すればきっと皆が主に立ち返るに違いない」と思い込んでいたのです。これは全く一方的な、独り合点の思い込みでした。ところが19章で神様は「お前は間違った思い込みをしている」と仰ることなく、敢えてエリヤの思い込みを正されようとはなさいませんでした。

・自責の念に囚われる時
 私はこの19章を読むときに神様の慈しみに満ちた深い愛を感じます。もしも私にこの章のサブタイトルを付けることが許されるとしたら、迷わず
「神様によるカウンセリング」と名付けることでしょう。なぜなら、それはエリヤの悲嘆がエリヤの一方的な思い込みであったにせよ、主なる神様への期待故のものであるし、神様の期待に添うことのできなかった己の力なさを悔いる傷付きからの来ているものだからです。神様に期待されていながら、添うことができなかった「申し訳ない」という自責の念から発しているのです。「神様からの力をいただいていながら、神様のご計画を不意にしてしまった私のような者は、もはや生きている価値もない・・・・」と、生きる意味と目的を失い、エリヤは深く傷付いてしまっていたのです。神様はそのことを充分に解っておられました。だからこそ敢えて「お前は間違った思い込みをしている」いった上からのたしなめではなく、「お前はどのようにして傷付いてしまったのか」と、エリヤに寄り添っておられるのです。

 学会や全国規模の研究会の場で、患者さんが自殺してしまったという臨床心理士や精神科医師の報告を時折耳にすることがあります。こうした場合ほとんどの心理士や医師は、もはや心理治療を続けられないほどに打ちのめされ、深く傷ついてしまい、中には資格を返上する人もあります。ところで私たちはカウンセリングのような職業的関係ではなくとも、友人・知人・家族の死に接する時に、自分が何も成し得なかった無力さを感じ、深く傷ついてしまうことがあります。しかし、大切な人の死をくい止める知識や技術を自分が持ち合わせていなかった場合には、どうしようもなかったと、そのことを慰めにどうにか立ち直ることができたりするかもしれません。ところが、心理士や医師など、患者さんの死をくい止めるための知識や技術をいくらかでも持っている者にとって、相手の死は耐え難い苦しみを伴うことになります。

 例えば、私の姉もそうです。姉夫婦は10年以上前の冬に、防波堤で釣りをしているときに高波にさらわれ、二人は厳寒の海に投げ出されてしまいました。荒れ狂う凍える海で浮きつ沈みつしながら、姉は夫が溺れていく様に手をこまねくしかありませんでした。実際に姉にはこの時夫に対しどうしてあげられようもなかったのですが、「もしも私があの時釣りに行くのを止めようと言っていたら」、「もしも私があの時もう止めて帰ろうと言っていたら」、「もしかすると、あの時夫を抱えて泳ぐことができたかもしれない」など、どうしようもなかったことを「自分にはどうにかしてあげられたかもしれない」と思っては「それならどうして、あの時それを試みなかったのだろう」と、自分を責め続け、自分自身が許せなくなってしまいました。およそここにいらっしゃるみなさんの中にも、少なからず大切な人の死を通して、似たような思いを感じられたことはあろうかと思います。

 心理士も医師も万能ではありませんからどうしようもないことだってあるんですが、「どうにかしてあげられたかもしれない」という思いに苦しめられてしまうのです。まして、エリヤは、できないことなど何一つない神の力を与えられていたのですから、「できる」と堅く信じていました。にもかかわらず、結果はエリヤの思ったものではなく、「できるはず」のことが実際には成し遂げられなかった己の無力さに、エリヤはもはや生きていられないほどに深く傷ついたのでした。

 神様は傷付いて動けなくなったエリヤに
緩やかな癒しの時間を与え、ホレブの山中で羽ぐくむ(=育むの語源)ようにエリヤを優しく包んで外敵から護っておられます。そして神様はカウンセラーとして実に絶妙のタイミングで二度に渡ってエリヤの悲しみに耳を傾けられるのです。

・祈りの本質
 さて、エリヤは、神様のために神様に期待しつつ祈りましたが、私たちは日々神様に対して、どのような祈りを捧げているでしょう。
一体、私たちは誰のために日々祈っているのでしょう。ともすると私たちは神様のためではなく、私自身に都合の良い思い込みによって祈ってしまってはいないでしょうか?

 エリヤは「民衆の心の中に主なる神が復権なさるに違いない」との思い込みによって祈り奇跡を行いましたが、それは誰のためでもなく、神様にとってそうなることが神様の最も喜ばれる結果に違いないという思い込みに始まったものでした。そして、そうした神様を中心に祈るエリヤの姿勢の故に、神様はエリヤを慈しまれたのです。

 対して、私たちが己にとって最良であろうとの思い込みよって祈りを捧げているのだとしたら、祈りが聞き届けられなかったと悲嘆にくれたとして、神様は私たちを慈しんで下さるのでしょうか。19章のエリヤの姿は、
私たちが誰のために生き、そして誰によって生かされ、誰のために祈るのか、改めて見つめ直す必要を問いかけているように思います。