今から遡ること約490年前の1517年10月31日夕方のこと、マルチン・ルター(ルーテル)が、ヴィッテンベルグ城教会の扉に「95箇条の提題」を貼り付けたことから宗教改革が始まったと言われています。しかし、ルターはそれより1年も早く、1516年10月31日の説教の中で贖宥券(免罪符)を非難し、1517年の2月にも同様に贖宥券売買を非難していました。 特にこのことは、提題の第5条に 「教皇は、自分自身または教会法が定めるところによって課した罪を除いては、どのような罪をも赦免することを欲しないし、またできもしない」 と記して、罪の赦しがあたかも金で買えるかのように説いたローマ・カトリックの教皇(法王)に真っ向から異議を唱えたのです。 この時既にルターは神学博士としての学位(1512年)を得ていて、ヴィッテンベルグ大学の教授として教鞭を執っていましたが、パウロの記した 「福音の中に、神の前に有効な義が啓示されているからである。この義は信仰に基づきまた信仰に向かっている。『義人は信仰のゆえに生きるのであろう』と書かれているとおりである」 という一節を熟考する中で、義に生きるとは、さまざまな教会的手段、霊的訓練、祈りや断食などの修行によって得られるものではなく、キリストに依り頼む者に神から一方的に与えられるものであることに気付いたのです。 この気付きによって、ルターの信仰は「神の咎めを避ける義」の苦しみから、「神の赦しによる恵みの義」へと解放され、平安に満ち満ちたものに変えられていきました。そのことを宗教改革の書物として 「キリスト教界の改善に関してドイツのキリスト者貴族に与える書」 「教会のバビロン捕囚」 「キリスト者の自由」 「善き業(わざ)について」 の4冊に次々と著し、 「恵みのみ」 「信仰のみ」 「聖書のみ」 を大原則として唱え、教会法を初めとする一切のものを捨て去ることを勧めたのでした。 1521年1月3日、ルターは正式にカトリック教会から破門されましたが、にもかかわらずカトリック教会は同年の4月17日に弁明の機会をルターに与えました。午後4時、大司教区法務官のヨハン博士が次のように質問しました。 「議員諸侯の前に置かれている書物は彼の著作となっているが、はたして本当に彼の著作であるのか。彼は、さらにそれを主張し続けるつもりがあるのか。あるいは、取り下げる準備があるのか。」 有名な、三つの質問と呼ばれるものです。ルターはこの三つの質問への回答として1日の猶予を与えられましたが、翌日次のように答えています。 「私は、聖書の証言に基づき、また、明確な論理に適った言葉によって誤りを証明されなければ、私の引用した聖書の言葉によって束縛されている。私の良心は神のことばの虜(とりこ)となっている。私は教皇や公会議を正しいとは信じない。なぜなら、彼らがしばしば誤りを犯し、自己矛盾をさらけ出してきたことは明白だからである。私は何ものも撤回することはできないし、また、しないであろう。自己の良心にさからったことをするのは危険であり、当を得ないからである。神よ、私を助けたまえ。アーメン。」 同年5月25日、ドイツ皇帝はルターの追放を決定しました。法的な保護を失ったルターは、いつ暗殺されてもおかしくない状態におかれましたが、この時フリードリヒ選帝候、ザクセン選帝候らによってワルトブルグ城に匿(かくま)われています。その間ルターは、貴公子ゲオルグとして隠遁生活を送りながら、それまでラテン語とギリシャ語にしか著すことが許されていなかった聖書を、ドイツ語に翻訳する事業に取り組みました。庶民の誰もが手にし、いつでも読める書物にすることがルターの願いでした。 後にルターの翻訳聖書がドイツ標準語の基礎を形作り、ルターが「ドイツ文語の父」と呼ばれたことは、あまりにも有名な話です。 ルターは、聖書ばかりでなく讃美にも改革をもたらしました。実は、それまで教会での讃美は聖歌隊によるラテン語の讃美しか許されていなかったのです。1524年にルターは教会で誰もが歌える讃美として、ドイツ語の「讃美歌集」を出版します。収録された32の讃美歌のうち実に24がルターの作によるものでした。中でも「神は我がやぐら」は有名ですが、ルターの著した五線譜の楽譜はそれまで七線や九線でバラバラに表されていた楽譜を統一する原型ともなったのです。ルーテル教会のオルガニスト兼作曲家としてヨハン・セバスチャン・バッハが有名ですが、彼もルターの楽譜を採用した一人だったのです。 ところで、宗教改革の兆しはルターの提題から100年以上前にもありました。プラハの大学教授ヨハン・フスがカトリック教会内の悪弊に反対し、1414年に教皇によってコンスタンツの公会議に召喚されるということがあったのです。会議では、意見を曲げないフスを異端として、火あぶりの刑が宣告されたとの記録が残されています。 ルターが95箇条の提題をヴィッテンベルグ城教会の扉に貼り付けるより10年ほど前の、1506年にローマのピョートル大聖堂の建造開始に伴って、資金を得るために贖宥券(免罪符)の販売が始まったわけですが、こうしたカトリック教会の悪弊にルターも黙ってられなくなり、フス同様命がけで立ち上がったのだと思われます。後にプロテスタント(抵抗者)と呼ばれることになりますが、ルターはカトリックから分裂することを望んでいたのではなく、カトリックが過ちを認め「恵みのみ」「信仰のみ」「聖書のみ」に立ち返ることを望んでいたのでした。しかし、当時のカトリックが誤りを正すことはなく、結果、ルターを破門してしまったのです。こうしたルターの宗教改革はヨーロッパ全土に広がりを見せ、その一部が大西洋を渡りアメリカを建国したと伝えられています。 1999年末、2000年を迎えようとする頃バチカンで法王(教皇)を中心に、数週間に渡って1000年の反省の時が持たれました。その中で初めて、カトリック教会が過去の過ちを認めています。まだ、すべての点で一致しているわけではありませんが、少しずつルターの唱えた福音が理解され始めてきているようです。プロテスタントとカトリックの歩み寄りは、そう遠くない未来(数百年単位)に実現するのかもしれません。 |